その時、私は人生で初めて一目惚れをした。
彼は、まるでおとぎ話の中から出てきたみたいに美しい見た目をしていた。凪いだ海のようなマント、すらりとしたその体付き、そして宝石みたいに純粋なその瞳。私の目の前に現れた彼は、幼い頃何度も読んだ絵本の中の王子様そのものだった。
「初めまして、ぼくはマルス。アリティアの王子で、この軍の指揮官だ。きみたちが仲間になってくれて嬉しいよ――これからよろしくね」
目の前の王子様は、私の目を見て微笑んだ。
そのやさしい表情に――ああ、アリティアって、きっとここよりも暖かい国なんだろうなと思った。もっと自分の目で色んな景色を見てみたい。そして、もっと彼のことを知りたい。
私は彼に挨拶を返すと、最後の故郷の地をしっかり踏み締め直した。
思えば私は昔から絵本が好きな子供で、友達と遊ぶときはいつも一緒に絵本を読んで遊んでいた。
「ねぇ! マリーシア、次はこの本がいい!」
私の友達、マリーシア。長い銀髪がきれいな彼女は、隣の家に住む私と同じくらいの年の女の子だ。マリーシアは床に散らばった絵本の中から一冊を両手で抱えると、そのまま私の元まで歩いてやって来た。彼女が抱えていた絵本は『灰かぶり姫』。私もマリーシアも大好きで、二人で何回も一緒に読んだ絵本だ。指でページの端を持ち上げると、ぺらりと乾いた音とともに一人のお姫様が現れた。「灰かぶり姫」と二人でタイトルを声に出すと、まるで呪文を唱えたみたいに絵本の世界に吸い込まれていく。
〝灰かぶり〟は、彼女のそのかわいそうな境遇から付けられたあだ名だ。彼女は継母から虐げられる日々を過ごしていたが、ガラスの靴を履いた彼女の元に王子様がやって来たことによって、彼とずっと幸せに暮らすお話。
マリーシアと何回も声に出して読んだから挿絵から文章までもうすっかり覚えてしまっているのに、私はこの絵本を読むのが大好きだった。特に、お城の使いが持ってきたガラスの靴にお姫様の足がぴったり合うところと、それを知った王子様が彼女に『結婚してください』と結婚を申し込むところが好き。お姫様に跪く王子様の絵を見て、いつか私にも王子様がやって来るのかな――なんて幸せな夢を描いたものだ。
数年後、私の元に現れたのは白馬の王子様ではなく、かの暴君・ラングであった。
私とマリーシアが十六になろうとする頃のこと。さきの戦争が終わり、ようやく訪れた平穏の時。私達の故郷であるグルニア王国は戦争によって滅んでしまったけど、帝国からグルニア自治の監査として派遣されたロレンス将軍は王国の再興を目標に尽力してくれており、私達は少しずつ戦争が起こる前の生活を取り戻しつつあった。
しかし、グルニア王国再興の夢は長くは続かなかった。それまでロレンス将軍が担っていた、グルニア自治の監査――その椅子をほとんど奪うような形で帝国から着任してきたラング将軍は、私達グルニアの民から全てを奪い、金と命の限りを搾り取った。村の食糧や金品は奪われ、若い娘は売り飛ばされ、男は兵隊として連れて行かれた。逆らう者は言うまでもなく皆処刑だ。
ほどなくしてこの悪名高いラング将軍を廃するべくロレンス将軍率いる反乱軍がその剣を掲げたのだが――まだ若い娘である私達にラングの魔の手が伸びるのも時間の問題だった。辛かったけれど、私達はお互いの両親の元を離れて暮らすことになった。マリーシアはおばあちゃんの家に移り老人の独り暮らしを装って草隠れ、私は山に住む薬師のおじいちゃんの家で一緒に薬を作って密かに暮らしていくことになった。
村に住んでいた頃よりも暮らしは不便になったけど、薬のことを新しく勉強するのは楽しかった。山で摘んできた薬草を煎じて、それらを調合する。ケガに直接塗るものや、毎日少しずつ飲んで体調を整えるものなど、日々おじいちゃんからたくさんの種類の薬の作り方を教わっては調合した。出来上がった薬が溜まってきたら、おじいちゃんが山を降りて売りに行き、そのお金で細々と生活をしていた。
おじいちゃんは私と薬を作れることこそ喜ばしく思っているようだったけれど、薬での稼ぎが少なく私に良いものを食べさせてやれないのをいつも申し訳無く思っているようだった。ただでさえ匿ってもらっている身だというのに、おじいちゃんにそんなことを思わせるのが嫌で、私は一心に仕事を頑張った。もっと早くたくさん薬を作って、おじいちゃんに楽をさせてあげたかった。
数ヶ月もすると、おじいちゃんから教えてもらった薬のほとんどを自分一人で調合できるようになっていた。最初は雑草とまるで見分けが付かなかった薬草も今ではある程度まで種類も区別の方法も分かるようになった。その頃になると、私は家で調合をし、おじいちゃんは村で薬の売り買いをするという役割分担ができるようになっていた。
その日も私が一人で薬の調合をしていると、玄関の方から突然コンコンと家のドアが叩かれる音が聞こえてきた。家に娘がいるなんて帝国の兵隊には絶対バレてはいけないので、もちろん居留守だが――気付かれぬよう離れた窓からノックの主を覗くと、家を訪ねてきたのは鎧を着た兵士ではなく、銀髪をきれいに束ねた少女だった。間違いない、彼女は数ヶ月前に離れ離れになった旧友マリーシアだ。
「マリーシア!?」
私はすかさずドアを開けた。彼女があの村から山に来るまでの間、もし兵隊に見つかりなどすれば連れて行かれることは必至だからだ。しかし、彼女は慌てて出てきた私を見てきょとんと驚いたような顔をすると、すぐに声を上げて笑い始めた。
「あはは――ごめん、驚かせた? 久しぶり!」
顔の横でひらひらと手を振るマリーシア。兵隊が今まさに辺りを歩いているかもしれないというのに――彼女のあまりにも落ち着いた様子に、今度は私が面食らう番だった。
「あ、ひ、久しぶり、えっと、どうしてここに?」
「実はね、さっき村にアリティアの人達が来てね、マリーシアを助けてくれたの!」
「……?」
意味が分からなかった。彼女を助けてくれた? 誰が、どうして? そもそも何でアリティアの人達がグルニアに? 色々なことが呑み込めなかった私はすぐさま聞き返した。
「えっ? どういうこと?」
「アリティアって、帝国の家来の国でしょ。だからロレンスをやっつけに来たんだけど、そのときにマリーシアを助けてくれたの」
「……??」
彼女に尋ねてもますます謎は深まるばかりだ。
確かにアリティアは帝国に従っている国だから、ラングに反旗を翻したロレンスを追い出そうとするのは分かる。
だけどそんなアリティアの人がラングに脅かされていた私達の村を訪ね、略奪や誘拐をするのではなく、むしろ若い娘であるマリーシアを助けたというのは一体どういうことなのだろう。
マリーシアは今いち話の掴めていない私の顔を見ると詳しく話し始めた。
「あのね、アリティアの王子様がおばあちゃまの家に来たの。最初マリーシアを連れて行くんだと思って隠れてたんだけど、お金や食べ物を分けてくれるやさしい人だったの。でも、あのまま村にいたっていつかまた帝国の人がここに来ると思ったから、マリーシア、アリティアの人達と一緒に行くことにしたの」
「…………えっ!?」
全く予想もしてなかった彼女の言葉につい驚きの声を上げる。マリーシアは私と同じく十六歳、まだ大人と呼ぶには若い年頃だ。そんな彼女が突然兵隊達の行軍に付いていくなんて、すぐには信じられない。
「どうしてそんな、アリティアも帝国の味方なんだから罠かもしれないよ」
「ううん……あの人はきっと悪い人じゃないわ。だって、ラングの兵隊と違ってやさしい目をしてたのよ。マリーシア、その目を見た瞬間、この人の国に行きたいって思ったの。だから連れていってってお願いしたのよ」
彼女の目はまっすぐで、嘘を言っているようには見えなかった。彼女は昔から正直な子で、何があっても私を裏切らないと分かっていた。そんな彼女が言うなら、アリティアの人たちはきっと信頼できるのだろう。
それに本当に彼が村を訪れたなら、ラングがいかに悪事を重ねているかすぐに分かるはずだ。もしかしたらアリティアの人達はラングの悪行に気が付いていて、本当は私達グルニアの民を助けようとしてくれているのかもしれない。そんな想像が私の中に浮かび始める。
反論の言葉に詰まる私に彼女は続けた。
「今のアリティア軍に、杖を使える人がいないんだって。マリーシアもまだすごく上手なわけじゃないけど、でも軽いケガなら癒せると思うから……」
「!――」
あまり考えたくはないけれど――彼女の言う通り、いずれ帝国の人達はまたグルニアの民を連れて行くだろう。結局私に残された選択肢は、おじいちゃんの家で薬を作って売ること、それだけになる。
おじいちゃんと薬を作ることが嫌な訳じゃない。おじいちゃんと一緒に過ごすのは楽しい。しかし帝国の人達に脅えて隠れて暮らす、この生活をいつまでも続ける訳にもいかない。私はそのことになんとなく気付いていた。けれど、どうやって抜け出せばいいのかずっと分からないでいたのだ。
しかしマリーシアの『軽いケガなら癒せると思う』というその言葉に、頭の中の霧がさっと晴れたような気がした。そうだ、戦えなくても人の役に立つことはできる。シスターとしての修行を積んだマリーシアは癒やし手として――そして私は、軍を支える薬師として仕事をすることができるかもしれない。そう直感した瞬間、『私もアリティア軍と一緒に行くべきかもしれない』――そんな考えが頭の中をよぎった。もしアリティアの人達が本当にグルニアを助けてくれるなら、私もそれに加わりたいと思ったのだ。
「――マリーシア、軍に薬師の人はいた?」
「え? うーん、見た感じ槍を持った兵隊さんばっかりだったからいないかも」
「そっか……、えっと……私も行っていいかな?」
「! 一緒に来てくれるの?」
私の言葉を聞くと、マリーシアはすぐにその顔を輝かせた。軍に入りたいという自分の意志を受け入れてもらったことに嬉しくなった私は、自分の考えを話した。
「うん……マリーシアを助けてくれた人を、私も助けたい。おじいちゃんも……あとお父さんとお母さん、あと、このグルニアにも恩返しがしたいの」
「……うん。マリーシアも同じ気持ちだよ」
彼女は私の目をじっと見据えると、大きく頷いた。いつにない彼女の真剣な眼差しに、心臓がぶるりと震えるような心地がする。
「えっと、アリティアの人達は今山の向こうの砦にいるの。でもマリーシア、友達と家族にあいさつするつもりだったから、一緒に村まで行かない?」
「うん! 私も最後おじいちゃんにあいさつしたいな」
私が返事をすると、マリーシアは満面の笑みを見せたあと跳ねるようにして山を降りて行った。私も彼女のあとを追って木々の中を駆けていく。しばらく戻らないであろう野山の草を、一歩一歩踏み締めて。
おじいちゃんと暮らした山からかつて住んでいた村までは距離が近い。村に戻って、二人でアリティア軍に身を寄せることにしたとおじいちゃんに伝えると、初めは寂しそうな表情を見せたものの、私の決断を受け入れてくれた。私の話を聞いたおじいちゃんの目には涙が滲んでいた。そして「いつでもお前の好きなときに帰っておいで」と優しく声を掛けてくれた。
それからマリーシアの案内でしばらく歩くと、アリティア軍が滞在しているという砦に着いた。そのまま中へ入ると、青髪の男性の姿が奥に見えた。私達よりはいくつか年上そうだけど、その見た目以上に大人びた雰囲気を纏っている。このアリティア軍の指揮官だろうか――男性はマリーシアの姿を認めると、小さく微笑んだ。
「おかえり、マリーシア。……あれ、そちらは?」
「うん、えっと、この子はマリーシアの友達で、薬を作ることができるの。この子も一緒に行きたいんだって!」
「初めまして、私スミレと言います。マリーシアから話を聞いて、私も薬師として一緒に行きたくて……お願いします!」
マリーシアと砦に向かうまではどこか浮ついた気持ちがあったものの、軍の指揮官という立場の人間を前にするとさすがに緊張感を覚える。私は目の前の彼に向かって精いっぱい頭を下げた。
「初めまして、ぼくはマルス。アリティアの王子で、この軍の指揮官だ」
そう言うと彼は、私の目線に合わせるようにしてその場に屈み込んだ。その深くて青い瞳と目が合う。
その時、私は人生で初めて一目惚れをした。
マルス、私はその名を聞いたことがあった。さきの戦争で、暗黒竜を倒したアリティアの英雄。『竜を倒した』なんて聞いていたから勝手に大男を想像していたけど、こんなに細身の男性だったなんて知らなかった。幼い頃に何回も読んで、その度に恋をした白馬の王子様。絵本の中から飛び出してきたかのような、その整った顔立ちに目を奪われる。
そんな私をよそに、彼は私に質問を投げかけた。真剣な表情を浮かべる彼に私の心を悟られなくて、慌てて表情を引き締める。
「きみも、グルニアの子なのかい?」
「は、はい」
「そうか……」
彼は私の返事を聞くと、私とマリーシアを交互に見た後自分の考えを語り始めた。
「ぼく達アリティアは……立場上ラング将軍の指示に従わなければならないんだけど――ぼくは、彼のやり方は間違っていると思う。罪のない民達が連れていかれたり、ましてや殺されたりというのは間違っていると思う」
彼は話しながらその端正な顔立ちを少しずつ崩していく。まるでグルニアの民の苦しみが宿るかのように深くなる眉間の皺を見ていると、彼の思いに疑いをはさむ余地などなかった。
「ぼくはアリティアの人間だけど、目の前で人々が苦しんでいるところは見たくない。できるなら救いたいんだ……きみ達グルニアの民達を」
「!……」
『グルニアの民を救いたい』、そんな彼の言葉に心が揺さぶられる。彼の意志と、私の心は同じだ。胸からこみ上げる衝動のままに、私は口を開いた。
「私も……私も、このグルニアに恩返ししたいんです。帝国に怯えながら暮らすんじゃなくて、少しでも自分にできることがしたい。そう思ってここに来ました」
海を湛えているかのような、青い彼の瞳。私は彼の目をしっかり見据えてそう言うと、彼は微笑みながら小さく頷いた。
「うん。きみのような子に来てもらえるなら、ぼくも嬉しい――これからよろしくね」
目の前の彼は私の手を取ると、微笑みながら軽く握手をしてくれた。彼の着けている指ぬき手袋から露出した指先。そんな彼の指先から感じる繊細な熱に、私は思わず息を呑む。
「はい、こちらこそ――よろしくお願いします」
ゆっくりと、噛み締めるように挨拶を返す。
砦の近くに聳える厳しいグルニアの岩山。砦の窓からさらさらと冷たい山おろしが流れ込んできて、彼の長めの髪が小さく揺れる。その時の私は、彼に握手を返すので精いっぱいだった。
彼は、まるでおとぎ話の中から出てきたみたいに美しい見た目をしていた。凪いだ海のようなマント、すらりとしたその体付き、そして宝石みたいに純粋なその瞳。私の目の前に現れた彼は、幼い頃何度も読んだ絵本の中の王子様そのものだった。
「初めまして、ぼくはマルス。アリティアの王子で、この軍の指揮官だ。きみたちが仲間になってくれて嬉しいよ――これからよろしくね」
目の前の王子様は、私の目を見て微笑んだ。
そのやさしい表情に――ああ、アリティアって、きっとここよりも暖かい国なんだろうなと思った。もっと自分の目で色んな景色を見てみたい。そして、もっと彼のことを知りたい。
私は彼に挨拶を返すと、最後の故郷の地をしっかり踏み締め直した。
思えば私は昔から絵本が好きな子供で、友達と遊ぶときはいつも一緒に絵本を読んで遊んでいた。
「ねぇ! マリーシア、次はこの本がいい!」
私の友達、マリーシア。長い銀髪がきれいな彼女は、隣の家に住む私と同じくらいの年の女の子だ。マリーシアは床に散らばった絵本の中から一冊を両手で抱えると、そのまま私の元まで歩いてやって来た。彼女が抱えていた絵本は『灰かぶり姫』。私もマリーシアも大好きで、二人で何回も一緒に読んだ絵本だ。指でページの端を持ち上げると、ぺらりと乾いた音とともに一人のお姫様が現れた。「灰かぶり姫」と二人でタイトルを声に出すと、まるで呪文を唱えたみたいに絵本の世界に吸い込まれていく。
〝灰かぶり〟は、彼女のそのかわいそうな境遇から付けられたあだ名だ。彼女は継母から虐げられる日々を過ごしていたが、ガラスの靴を履いた彼女の元に王子様がやって来たことによって、彼とずっと幸せに暮らすお話。
マリーシアと何回も声に出して読んだから挿絵から文章までもうすっかり覚えてしまっているのに、私はこの絵本を読むのが大好きだった。特に、お城の使いが持ってきたガラスの靴にお姫様の足がぴったり合うところと、それを知った王子様が彼女に『結婚してください』と結婚を申し込むところが好き。お姫様に跪く王子様の絵を見て、いつか私にも王子様がやって来るのかな――なんて幸せな夢を描いたものだ。
数年後、私の元に現れたのは白馬の王子様ではなく、かの暴君・ラングであった。
私とマリーシアが十六になろうとする頃のこと。さきの戦争が終わり、ようやく訪れた平穏の時。私達の故郷であるグルニア王国は戦争によって滅んでしまったけど、帝国からグルニア自治の監査として派遣されたロレンス将軍は王国の再興を目標に尽力してくれており、私達は少しずつ戦争が起こる前の生活を取り戻しつつあった。
しかし、グルニア王国再興の夢は長くは続かなかった。それまでロレンス将軍が担っていた、グルニア自治の監査――その椅子をほとんど奪うような形で帝国から着任してきたラング将軍は、私達グルニアの民から全てを奪い、金と命の限りを搾り取った。村の食糧や金品は奪われ、若い娘は売り飛ばされ、男は兵隊として連れて行かれた。逆らう者は言うまでもなく皆処刑だ。
ほどなくしてこの悪名高いラング将軍を廃するべくロレンス将軍率いる反乱軍がその剣を掲げたのだが――まだ若い娘である私達にラングの魔の手が伸びるのも時間の問題だった。辛かったけれど、私達はお互いの両親の元を離れて暮らすことになった。マリーシアはおばあちゃんの家に移り老人の独り暮らしを装って草隠れ、私は山に住む薬師のおじいちゃんの家で一緒に薬を作って密かに暮らしていくことになった。
村に住んでいた頃よりも暮らしは不便になったけど、薬のことを新しく勉強するのは楽しかった。山で摘んできた薬草を煎じて、それらを調合する。ケガに直接塗るものや、毎日少しずつ飲んで体調を整えるものなど、日々おじいちゃんからたくさんの種類の薬の作り方を教わっては調合した。出来上がった薬が溜まってきたら、おじいちゃんが山を降りて売りに行き、そのお金で細々と生活をしていた。
おじいちゃんは私と薬を作れることこそ喜ばしく思っているようだったけれど、薬での稼ぎが少なく私に良いものを食べさせてやれないのをいつも申し訳無く思っているようだった。ただでさえ匿ってもらっている身だというのに、おじいちゃんにそんなことを思わせるのが嫌で、私は一心に仕事を頑張った。もっと早くたくさん薬を作って、おじいちゃんに楽をさせてあげたかった。
数ヶ月もすると、おじいちゃんから教えてもらった薬のほとんどを自分一人で調合できるようになっていた。最初は雑草とまるで見分けが付かなかった薬草も今ではある程度まで種類も区別の方法も分かるようになった。その頃になると、私は家で調合をし、おじいちゃんは村で薬の売り買いをするという役割分担ができるようになっていた。
その日も私が一人で薬の調合をしていると、玄関の方から突然コンコンと家のドアが叩かれる音が聞こえてきた。家に娘がいるなんて帝国の兵隊には絶対バレてはいけないので、もちろん居留守だが――気付かれぬよう離れた窓からノックの主を覗くと、家を訪ねてきたのは鎧を着た兵士ではなく、銀髪をきれいに束ねた少女だった。間違いない、彼女は数ヶ月前に離れ離れになった旧友マリーシアだ。
「マリーシア!?」
私はすかさずドアを開けた。彼女があの村から山に来るまでの間、もし兵隊に見つかりなどすれば連れて行かれることは必至だからだ。しかし、彼女は慌てて出てきた私を見てきょとんと驚いたような顔をすると、すぐに声を上げて笑い始めた。
「あはは――ごめん、驚かせた? 久しぶり!」
顔の横でひらひらと手を振るマリーシア。兵隊が今まさに辺りを歩いているかもしれないというのに――彼女のあまりにも落ち着いた様子に、今度は私が面食らう番だった。
「あ、ひ、久しぶり、えっと、どうしてここに?」
「実はね、さっき村にアリティアの人達が来てね、マリーシアを助けてくれたの!」
「……?」
意味が分からなかった。彼女を助けてくれた? 誰が、どうして? そもそも何でアリティアの人達がグルニアに? 色々なことが呑み込めなかった私はすぐさま聞き返した。
「えっ? どういうこと?」
「アリティアって、帝国の家来の国でしょ。だからロレンスをやっつけに来たんだけど、そのときにマリーシアを助けてくれたの」
「……??」
彼女に尋ねてもますます謎は深まるばかりだ。
確かにアリティアは帝国に従っている国だから、ラングに反旗を翻したロレンスを追い出そうとするのは分かる。
だけどそんなアリティアの人がラングに脅かされていた私達の村を訪ね、略奪や誘拐をするのではなく、むしろ若い娘であるマリーシアを助けたというのは一体どういうことなのだろう。
マリーシアは今いち話の掴めていない私の顔を見ると詳しく話し始めた。
「あのね、アリティアの王子様がおばあちゃまの家に来たの。最初マリーシアを連れて行くんだと思って隠れてたんだけど、お金や食べ物を分けてくれるやさしい人だったの。でも、あのまま村にいたっていつかまた帝国の人がここに来ると思ったから、マリーシア、アリティアの人達と一緒に行くことにしたの」
「…………えっ!?」
全く予想もしてなかった彼女の言葉につい驚きの声を上げる。マリーシアは私と同じく十六歳、まだ大人と呼ぶには若い年頃だ。そんな彼女が突然兵隊達の行軍に付いていくなんて、すぐには信じられない。
「どうしてそんな、アリティアも帝国の味方なんだから罠かもしれないよ」
「ううん……あの人はきっと悪い人じゃないわ。だって、ラングの兵隊と違ってやさしい目をしてたのよ。マリーシア、その目を見た瞬間、この人の国に行きたいって思ったの。だから連れていってってお願いしたのよ」
彼女の目はまっすぐで、嘘を言っているようには見えなかった。彼女は昔から正直な子で、何があっても私を裏切らないと分かっていた。そんな彼女が言うなら、アリティアの人たちはきっと信頼できるのだろう。
それに本当に彼が村を訪れたなら、ラングがいかに悪事を重ねているかすぐに分かるはずだ。もしかしたらアリティアの人達はラングの悪行に気が付いていて、本当は私達グルニアの民を助けようとしてくれているのかもしれない。そんな想像が私の中に浮かび始める。
反論の言葉に詰まる私に彼女は続けた。
「今のアリティア軍に、杖を使える人がいないんだって。マリーシアもまだすごく上手なわけじゃないけど、でも軽いケガなら癒せると思うから……」
「!――」
あまり考えたくはないけれど――彼女の言う通り、いずれ帝国の人達はまたグルニアの民を連れて行くだろう。結局私に残された選択肢は、おじいちゃんの家で薬を作って売ること、それだけになる。
おじいちゃんと薬を作ることが嫌な訳じゃない。おじいちゃんと一緒に過ごすのは楽しい。しかし帝国の人達に脅えて隠れて暮らす、この生活をいつまでも続ける訳にもいかない。私はそのことになんとなく気付いていた。けれど、どうやって抜け出せばいいのかずっと分からないでいたのだ。
しかしマリーシアの『軽いケガなら癒せると思う』というその言葉に、頭の中の霧がさっと晴れたような気がした。そうだ、戦えなくても人の役に立つことはできる。シスターとしての修行を積んだマリーシアは癒やし手として――そして私は、軍を支える薬師として仕事をすることができるかもしれない。そう直感した瞬間、『私もアリティア軍と一緒に行くべきかもしれない』――そんな考えが頭の中をよぎった。もしアリティアの人達が本当にグルニアを助けてくれるなら、私もそれに加わりたいと思ったのだ。
「――マリーシア、軍に薬師の人はいた?」
「え? うーん、見た感じ槍を持った兵隊さんばっかりだったからいないかも」
「そっか……、えっと……私も行っていいかな?」
「! 一緒に来てくれるの?」
私の言葉を聞くと、マリーシアはすぐにその顔を輝かせた。軍に入りたいという自分の意志を受け入れてもらったことに嬉しくなった私は、自分の考えを話した。
「うん……マリーシアを助けてくれた人を、私も助けたい。おじいちゃんも……あとお父さんとお母さん、あと、このグルニアにも恩返しがしたいの」
「……うん。マリーシアも同じ気持ちだよ」
彼女は私の目をじっと見据えると、大きく頷いた。いつにない彼女の真剣な眼差しに、心臓がぶるりと震えるような心地がする。
「えっと、アリティアの人達は今山の向こうの砦にいるの。でもマリーシア、友達と家族にあいさつするつもりだったから、一緒に村まで行かない?」
「うん! 私も最後おじいちゃんにあいさつしたいな」
私が返事をすると、マリーシアは満面の笑みを見せたあと跳ねるようにして山を降りて行った。私も彼女のあとを追って木々の中を駆けていく。しばらく戻らないであろう野山の草を、一歩一歩踏み締めて。
おじいちゃんと暮らした山からかつて住んでいた村までは距離が近い。村に戻って、二人でアリティア軍に身を寄せることにしたとおじいちゃんに伝えると、初めは寂しそうな表情を見せたものの、私の決断を受け入れてくれた。私の話を聞いたおじいちゃんの目には涙が滲んでいた。そして「いつでもお前の好きなときに帰っておいで」と優しく声を掛けてくれた。
それからマリーシアの案内でしばらく歩くと、アリティア軍が滞在しているという砦に着いた。そのまま中へ入ると、青髪の男性の姿が奥に見えた。私達よりはいくつか年上そうだけど、その見た目以上に大人びた雰囲気を纏っている。このアリティア軍の指揮官だろうか――男性はマリーシアの姿を認めると、小さく微笑んだ。
「おかえり、マリーシア。……あれ、そちらは?」
「うん、えっと、この子はマリーシアの友達で、薬を作ることができるの。この子も一緒に行きたいんだって!」
「初めまして、私スミレと言います。マリーシアから話を聞いて、私も薬師として一緒に行きたくて……お願いします!」
マリーシアと砦に向かうまではどこか浮ついた気持ちがあったものの、軍の指揮官という立場の人間を前にするとさすがに緊張感を覚える。私は目の前の彼に向かって精いっぱい頭を下げた。
「初めまして、ぼくはマルス。アリティアの王子で、この軍の指揮官だ」
そう言うと彼は、私の目線に合わせるようにしてその場に屈み込んだ。その深くて青い瞳と目が合う。
その時、私は人生で初めて一目惚れをした。
マルス、私はその名を聞いたことがあった。さきの戦争で、暗黒竜を倒したアリティアの英雄。『竜を倒した』なんて聞いていたから勝手に大男を想像していたけど、こんなに細身の男性だったなんて知らなかった。幼い頃に何回も読んで、その度に恋をした白馬の王子様。絵本の中から飛び出してきたかのような、その整った顔立ちに目を奪われる。
そんな私をよそに、彼は私に質問を投げかけた。真剣な表情を浮かべる彼に私の心を悟られなくて、慌てて表情を引き締める。
「きみも、グルニアの子なのかい?」
「は、はい」
「そうか……」
彼は私の返事を聞くと、私とマリーシアを交互に見た後自分の考えを語り始めた。
「ぼく達アリティアは……立場上ラング将軍の指示に従わなければならないんだけど――ぼくは、彼のやり方は間違っていると思う。罪のない民達が連れていかれたり、ましてや殺されたりというのは間違っていると思う」
彼は話しながらその端正な顔立ちを少しずつ崩していく。まるでグルニアの民の苦しみが宿るかのように深くなる眉間の皺を見ていると、彼の思いに疑いをはさむ余地などなかった。
「ぼくはアリティアの人間だけど、目の前で人々が苦しんでいるところは見たくない。できるなら救いたいんだ……きみ達グルニアの民達を」
「!……」
『グルニアの民を救いたい』、そんな彼の言葉に心が揺さぶられる。彼の意志と、私の心は同じだ。胸からこみ上げる衝動のままに、私は口を開いた。
「私も……私も、このグルニアに恩返ししたいんです。帝国に怯えながら暮らすんじゃなくて、少しでも自分にできることがしたい。そう思ってここに来ました」
海を湛えているかのような、青い彼の瞳。私は彼の目をしっかり見据えてそう言うと、彼は微笑みながら小さく頷いた。
「うん。きみのような子に来てもらえるなら、ぼくも嬉しい――これからよろしくね」
目の前の彼は私の手を取ると、微笑みながら軽く握手をしてくれた。彼の着けている指ぬき手袋から露出した指先。そんな彼の指先から感じる繊細な熱に、私は思わず息を呑む。
「はい、こちらこそ――よろしくお願いします」
ゆっくりと、噛み締めるように挨拶を返す。
砦の近くに聳える厳しいグルニアの岩山。砦の窓からさらさらと冷たい山おろしが流れ込んできて、彼の長めの髪が小さく揺れる。その時の私は、彼に握手を返すので精いっぱいだった。
2024/09/01