『今までありがとう。またどこかで会おう』
そう言って彼は微笑む。どうしてそんなに穏やかな顔をしていられるの。どんどん遠くなっていく彼に、どれだけ腕を伸ばしても届かない。
「待って、マルス――」
『ごめんね、そろそろ行かなくちゃ』
「いやだ、お願い、行かないで」
マルスのことは笑顔で送り出したかった――こんなこと言いたくなかったはずなのに、彼を引き止める言葉と自分勝手な涙が止まらない。私の嗚咽に背を向けて、彼はその門へと歩を進めた。
『さようなら』
彼がそう小さく言うと彼の体は瞬く間に光に包まれていく。次に目を開けたときには――マルスは、もうどこにもいなくなっていた。
「マルス――‼」
そう叫んだ瞬間、私の声は夜の闇に吸い込まれていった。自分の放った声が小さく響く。目を開けると、そこは紛れもなく自分の私室だった。
「ゆ……ゆめ……?」
いつもの石レンガの天井に、いつものベッド。窓の向こうでは星が瞬いている。気付くと自分の汗で濡れた肌着がじっとりと体に張り付いていた。
今のマルスとのやり取りは、どうやら夢の出来事だったようだ。
「はぁ……」
夢とは言え、彼に対してあんな言葉を掛けた自分に嫌気が差す。私は寝転んだまま溜息を吐いて、ごろりと寝返りを打った。
……さっきマルスが足を踏み入れていたあれは、間違いなく送還の門――英雄が、元いた世界に戻るためのものだ。一度その門の向こうに足を踏み入れると、もうこちらの世界に戻ることはできない。あの門の向こうへと行くということは、これから先永遠に離れてしまうということと同じだ。
私は夢のことを早く忘れてしまいたくて、布団の中に隠れるように潜り込んで目を瞑った。瞼の暗闇を振り切りたくて、必死に眠ろうとした。
エンブラ帝国皇家を憑竜の呪いから解き放ったあの戦いから数年。
『アスクの人間を殺す』という本能から解放された帝国は、程なくしてアスク侵攻を無期限で停止することを宣言。両国の間に和平条約が結ばれたことにより、アスクとエンブラは良き隣国同士となった。
憑竜との戦いによって大きく荒れてしまった両国の復興もそれなりに進んできた頃、アスクとエンブラの間で重大な事項が決定された。それは、近いうちにそれぞれの国で召喚されていた英雄達を元の世界に送還させるということ。
そもそも英雄達はこの世界の住人ではなく、私達が勝手に異界から召喚した者達だ。彼らにもそれぞれの生活があり、愛する人がいて、立ち向かうべき戦いがある。長い間隔たれたままだったアスクとエンブラの溝が埋まった今、英雄達を元いた世界に帰すべきだという声が強まったことによって今回の事項が決まったのだという。
そう、もうしばらくしたらマルスは本当に帰ってしまうのだ。あの夢はでたらめなどではなく、きっと近いうちに現実になる。
「……はぁ」
マルスは、数年前私がこのアスクに来て初めて喚び出した英雄だった。
それまでの私は、毎日毎日ぱっとしない仕事をこなして家に帰って眠り、また仕事をするために出て行く――その繰り返しの中で何とかやっていた。
それがある日突然知らない世界にやって来たかと思えば、『世界を救う大英雄』『召喚師』などと持ち上げられ、言われるがままに神銃を振るわされたのがつい先日の出来事かのようだ。訳の分からぬままアルフォンスとシャロンに召喚の儀を執らされ、眩い光の後に現れたその青い瞳を今でも鮮明に思い出すことができる。
初めてエンブラ軍と交戦した時も、ムスペルの王スルトと対峙した時も、憑竜エンブラを討った時も――マルスは私の、私達の側にいてくれた。そして彼もまた突然召喚された身だと言うのに、私達のことをいつも気遣ってくれた。
そんな彼に特別な感情を抱くようになっていたのはいつからだろう。
初めはただの憧れの気持ちだけだった。早く彼のように戦えるようになりたかった。マルスは、優しくて芯のある男性だ。きっと性別関係なく多くの人が彼に惹かれて、もっと彼のことを知りたいと思うだろう。そう言う私もその一人だった。
マルスの隣で戦えるだけで嬉しかった。彼と同じ方を向いて進んでいることが嬉しかった。でも、彼のことは好きだけど、恋仲になることは望んでいなかった。私が思いを伝えるのは、誰にも望まれていないことだからだ。私は誰の笑顔だって壊したくないのだ。
「はあ……」
溜息を吐きながら王城の倉庫のすみっこで屈みこむ。腰を下ろすと、色んなところに埃が被っていることに気が付く。
英雄達がアスクを離れるのに際して、王城の中に大量に存在する武具を整理するのが今日の私の仕事だ。召喚された際に既に武具を持っている英雄が多いせいで、王城には大量の剣やら鎧やら魔道書やらが溜まっていく一方だった。今までは使わなくなったものでも念のため残していたけど、英雄たちがアスクから居なくなるのであれば流石に整理が必要だ――ということで、今日は一日大掃除の日なのである。
埃の被る武具たちを眺めていると、色々なことを思い出す。これはあの人が鍛錬で使っていたもの、これはあの子が譲ってくれたもの。剣の刃先はこぼれているし、鎧だって傷だらけだ。戦っているときは皆命懸けだったけれど、平和な時代が訪れた今では傷の一つ一つが愛おしく感じる。
(懐かしい……)
小さな窓から差す陽の光に当たって、埃がきらきらと舞っている。早く掃除しなきゃ、と思えば思うほど昔に思いを馳せるのをやめられない。と、積み上がった本の山の中に一冊見慣れた魔道書があることに気付いた。
(これは……)
よく見ると、それはブリザーの魔道書だった。――確かこれって、スルトと戦った時の……。脳裏にあの神殿の熱気が蘇る。
『っ! ブリザー!』
呪文を唱えると、冷気が爆ぜる音とともに右腕から氷の柱が放たれ、目の前の炎が一瞬で凍りついた。
――魔道だ! 私、魔道が使えるようになったんだ‼
……ああ、懐かしい。あれももう数年前のことか……。あの日の夜、マルスと会話を交わしたときから彼のことを好きになったんだっけ。何年も一人の人が好きなんて、それだけ聞けば一途な人みたいなんだけど、彼には婚約者がいるからなあ……
なんてもう慣れてしまった苦い気持ちも一緒にしまうように、ブリザーの魔道書を閉じる。どうしようかな、やっぱり処分するのはもったいない気がする――
「召喚師さまっ!」
「うわっ⁉」
ばしっという音ともに背中に衝撃が走る。叩かれた!
誰だと振り返ると、そこにはシャロンが立っていた。私のノスタルジックな気持ちなんてつゆ知らず、彼女はいつもの朗らかな表情で私に手を振る。
「お疲れ様です! 作業進んでますか?」
「あ――」
「皆さんが帰る前にキレイにしておかないとですよ――って、あらら、これは……」
言われて手元を見ると、錆びた剣の束に埃の被った矢筒が沢山。これではまるで手を動かしてないのがバレバレだ。
「いや〜、サボってるのバレちゃった」
「あはは! 召喚師さまでもお仕事サボるときもあるんですねっ」
「うん、色んなもの見てると懐かしくなっちゃって」
「ああ、わかります! 大掃除してると色んなもの発見して懐かしくなっちゃいますよね〜」
ゴーン、ゴーン――。
彼女がそう言った次の瞬間、お昼を告げる鐘が鳴った。もうそんなに時間が経っていたのか。
鐘の音を聞いたシャロンはぴょいっと跳ねるような真似を見せると、私の腕をぐいと引っ張った。
「ほらほら、今日もお隣でご飯食べましょう♪ 行きますよ!」
「わっ、ちょっとあぶな――」
「今日のお昼はハンバーグだそうですよっ!」
彼女に腕を引かれるようにして倉庫を離れる。背中からガシャガシャと矢の山が崩れるような音が聞こえたような気がするが、今の私におてんば王女の腕から逃れる術は無かった。
「召喚師さま、いよいよ今日ですね!」
私が昼食のハンバーグを口に運ぼうとしていると、向かいの席からシャロンが身を乗り出して話し掛けてきた。
急にその話題を振られるとは思わず、手元のフォークとナイフが皿に落ちてガチャンと鋭い音が鳴ってしまった。自分で鳴らした音にドキリとして辺りを見回すが、皆それぞれの食事や会話に夢中のようで私達に気を向けている者はいなさそうだ。
「やっぱり緊張しますか?」
「そりゃもちろん……」
「大丈夫ですって! マルスさんならきっとニコッと笑って『ありがとう』って受け取ってくれますよ!」
パチン、といつもの可愛らしいシャロンのウィンク。最初に彼女と出会ったときからはお互いいくつか年を取ってしまったけど、彼女のその可愛らしさはずっと変わらない気がする。
私とシャロンは、ある計画を実行する予定であった。二人で何度も作戦会議を重ねついに固めた計画――それは、今夜開かれる送別の宴でマルスに贈り物を贈ること。
『今まで共に戦ってきた英雄達が離れ離れになってしまう前に、最後の宴を開こう』――英雄達の送還を前に、誰かがそう言った。その言葉がいつの間にかアルフォンスとシャロンの耳にまで届き、彼らの賛同によって今夜宴が開かれることとなった。
そして……、そこで私はマルスに贈り物を贈ることにした――いや、なってしまったのである。
手元に意識を戻して、フォークとナイフを握り直す。フォークで葉菜を掬って口に運んだ。
私はマルスのことが好きだ。……ということは、自分が元の世界に帰れるまで胸の内に秘めておくつもりだった。というより、あえて自分の感情を深追いしないことで心の中に閉じ込めておこうとしていた。彼の隣には既に大切な人がいて、そして彼の故郷は戦禍に見舞われているから。彼の大切なもの達を侵せるほど、自分は立派な人間ではない。
しかし初めはシャロンにうっかり秘密を漏らしてしまって、噂が広まったりしないか心配だった。でも意外と(ちょっと失礼だけど)彼女は口が堅くて、今まで誰かにこの秘密が漏れている様子は無い。それどころか私のことを気遣ってくれて、叶わぬ恋だと分かっているにも関わらずこうして応援までしてくれている。そのことが本当に嬉しくて、今まで何度彼女の優しさに助けられたことか。
「宴の最中、一人になったマルスさんを狙って私と二人で話し掛けて、最後に用意したプレゼントを渡す! これでバッチリ、作戦完了です!」
「うん――あぁ……上手く渡せるかなぁ」
「大丈夫ですって! このシャロンが付いてますから!」
誇らしげに自らの胸を叩く彼女。屈託の無い笑顔が光り輝く。
今回渡すプレゼントだってあくまで餞別という名目であって、愛の告白をするつもりは毛頭無い。それでも怖気づいている私に、シャロン王女はこうして付いてくると言ってくれているのだ。
「そうだね、ありがとう」
「今日、大丈夫そうですか?」
「うん、頑張るよ」
心配そうに見つめる彼女の言葉に頷くと、みるみる内に顔が明るくなった。この顔を見るといつだって安心する。
言葉とは不思議なもので、『頑張る』と口にするだけで本当に乗り越えられそうな気がしてくる。そうだ、頑張らないと。
「良かったです! 一緒に頑張りましょうね、召喚師さま‼」
また身を乗り出してきたシャロンを宥め、私達はそれぞれの食事に戻った。
そうだ、言ってる間にマルスとお別れしないといけない時が来るのだ。
これまでの長い戦いの中で今まで色々な相手と対峙してきたし、時には命の危険を感じるような場面も少なくなかった。
だけど、こうして自分自身の気持ちと向き合うのもとてつもなく大変なことだ。今の私には呑み込まないといけないことが多い。でも、このまま彼と永遠にお別れするのは嫌だ。これからも私が頑張っていくために、きちんと清算しなきゃ。
『それでは、アスク王国の永久の平和を祈りまして――乾杯!』
アルフォンスの音頭で王城中が一斉に歓喜の声に包まれた。乾杯と嬉しそうに唱和する者、周りとグラスを交わす者など、賑やかな雰囲気で宴会は始まった。
今夜が杯を交わす最後の機会だからか、アスクに召喚した英雄たちは皆集まってくれているようだ。楽しげな声に混じって小さな英雄たちの声も聞こえてくる。そんな皆の様子を見ていると私もつられて笑顔になってくる――けれど。
(いつ話し掛けよう)
そのことばかりが気掛かりで、どうしても私はマルスの姿を目で追ってしまっていた。
マルスには、同じくアカネイア大陸からやってきた英雄達と同じテーブルに座ってもらっている。彼も自身の側近の人達や友人達に囲まれて楽しげに笑っていた。
そしてそんな彼の隣には、やはりと言うべきか、シーダが座っている。こちらからは彼女の横顔しか見えないけれど、マルスと嬉しそうにグラスを交わす彼女の姿はとても幸せそうだ。
遠くのテーブルから仲睦まじ気に会話を交わす二人を見ていると、思わず目を背けたくなる。何か見てはいけないものを見てしまったような、罪悪感のようなものに苛まれる。そんな私の様子に気付いたのか、マルスがこちらに視線を移した。その青い瞳に私が映っている。
「あ……」
私が逃げるように目を逸らすと、その視線の先にいたシャロンと視線がぶつかった。彼女はアスクの王家の人間として、アルフォンスの隣に座っている。シャロンは私と目が合うとにっこり笑ってグラスを口に運ぶジェスチャーをした。
元々彼女との作戦会議で、マルスにプレゼントを渡すのは宴会の中盤――マルスが一人になったときを狙う、という風に決めている。まだ宴会も始まったばかりだから、きっと『楽しみましょう!』とかそういうメッセージを送りたいのだろう。
私はそんなシャロンに頷き返すと、私は手元のグラスを口元へ運んだ。未だ揺らぐ決意をいい加減固めたかった私は、一気に中身を飲み干した。
英雄達が集う最後の機会だということもあり、宴会は大いに盛り上がった。これほど大きな宴会となると流石にシェフ達も気合いが入るのか、どの料理も美味しかった。
初めは皆にそれぞれ所定の位置で食事を楽しんでもらっていたけど、宴が盛り上がってくるとグラス片手に席を移って皆思い思いに楽しんだり、思い出話に花を咲かせたりしていた。
私はと言えば、緊張しすぎると良くないと思ってなるべくマルスの方を見ないようにしていた。幸いマルスのもとには沢山の英雄が集まっていたようで、私も安心した気持ちで他の英雄達と最後の時間を楽しむことができた。
「召喚師さま!」
料理をいくつか頂きワインも何杯か飲み切った頃だった。程よく上機嫌になった私が他の英雄達と話し込んでいると、向こうからシャロンが駆け寄ってきた。いつもと同じように見えるけど、いつもよりなんだか慌てているというか、ちょっと様子が変だ。
「あ、シャロン。どうしたの?」
「お兄様が呼んでるんです! 来てください、さ、早く!」
「えっ、ちょっと」
言うや否や、彼女は会話途中の私の腕を引いて歩き出した。一体何を考えているのか、私の静止も聞かずどんどん引っ張っていくので握られている腕が痛い。
「シャロン、何を――」
「マルスさんが一人なんですよ! 早くしないとまた誰か来ちゃうかもです!」
「!」
彼の名前を耳にした瞬間心臓が跳ね上がる。今の今まで忘れていた、――いや、考えないようにしていた決意が私の背中を震わせた。彼の元に行くには、もう少し心の準備が必要だ。せめて一旦止まりたい。
しかし、そんな私の気持ちなどいざ知らずシャロンの背中はどんどん進んでゆく。最初は早歩きくらいだったのに、段々加速してついにはほぼ走らされているも同然だった。夜のアスク王城に、カツカツと硬い足音が響く。宴会場を抜けた空気は冷たくて、酒精で火照った頬を冷ます。あっという間に大広間を抜け、階段を上り、バルコニーへと連れて来られてしまった。
「ちょっと、シャロ、ン……」
彼女がバルコニーの扉を開ける傍らで、すっかり息の上がってしまった私が彼女に文句を入れようと顔を上げると、扉の向こうでロイヤルブルーのマントが靡いていた。夜風ではためくそれに、私の目が奪われる。
(あ――)
遠目からでも彼の姿は分かった。月の光を受けて煌めくその髪を、見紛う訳がない。彼は一人、バルコニーから外を眺めていた。
「マルスさん、召喚師さまを連れて来ましたよ!」
シャロンが私の背中を押すようにしてマルスの目の前に押し出す。急に押されてよろめいたけれど、なんとか体勢を立て直すと目の前の彼を見上げた。
「ああ……ありがとう、シャロン王女」
丸い、彼の瞳を縁取った睫毛が僅かに伏せた。私よりも背の高い彼は、私と話すとき視線を下げてくれる。そんな彼と目が合うたびに、私はいつも緊張して息を呑んでしまうのだ。
でも今夜の緊張の仕方は普段のそれとは比べ物にならない。心の準備が間に合ってない。どうしよう、何か言わなくちゃ。私が言葉を探していると、先に彼が口を開いた。
「えっと、ぼくに話があるって聞いたけど……」
「えっ⁉」 ――話⁉ 「えっと、その」
そんな言い方をしたらまるで本当に私が彼に告白するみたいではないか……! それにそのために彼にここで待ってもらっていたかと思うと、なんだか申し訳無い気持ちだ。視線を色んなところに彷徨わせながら、私はなんとか言葉を絞り出した。
「えっと、マルスに、最後の挨拶をしたくて」
「ああ……! それならぼくも君と話しておきたかったから、ちょうど良かったよ」
彼はそう言うとわずかに微笑んだ。
ああ、よかった――。彼は嘘を言う人間ではない。マルスにとっては文字通り仲間一人一人のことが大切で、私にこう言われるのもきっと本当に嬉しいのだと思う。
ほんの少し彼と気持ちが重なるだけでも胸が温かくなる。でも私の心臓は未だにばくばくと早鐘を打ち続けている。いや大丈夫、このまま落ち着いてプレゼントを渡せば。しかし私が切り出す前に、マルスの言葉が先に続いた。
「そうだ、シャロン王女も良かったら話さないかい?」
「あ……! いえ、私はお兄様に呼ばれておりますので、そろそろ失礼致します!」
「へぇっ⁉」
シャロン、行っちゃうの⁉ 彼女の方をばっと振り向くと、パチンといつもの可愛らしいウィンク。きっと気を遣ってくれているのだろうけど、一人じゃ心細いよ……!
「そうか、引き止めてしまって申し訳無かったね」
「いえいえ、私も色んな英雄さんと話したかったですから! ではごゆっくり〜!」
ごゆっくり、って……! シャロンはそう言うと、私の返事も聞かずにそそくさとバルコニーを出て行ってしまった。開いた口が塞がらないとはこのことだ。私はどうすることもできず、ただ離れていくシャロンの背中をぼんやりと眺めることしかできなかった。
「えっと……今日はぼく達のためにありがとう」
私が固まっていると、彼の方から話題を振ってくれた。彼の方も気まずそうな雰囲気を纏っていてなんだか申し訳無い。
「あっ、いやそんな、むしろ私達のほうこそずっとマルス達に頼りきりだったんだし……こちらこそ、長い間アスクに力を貸してくれて本当にありがとう」
「うん。……もう戦いは終わったから、これからこの世界の人達が平和に暮らせるようになるといいね」
そう言ってバルコニーの手すりにもたれた彼の横顔は、夜風に吹かれる草木を見ていた。
きっと彼は、長く続いていたアスクとエンブラの戦いが終結したことが心から嬉しいのだろう。それは、自分が早く元の世界に帰りたいからというよりも、この世界の戦禍で苦しむ全ての人々を救いたかったからというのが大きな理由なのだと思う。
彼はよく『困っている人がいるなら、違う国の人でも違う世界の人でも関係ない』と言っていた。彼もかつて戦争によって祖国を追われた人だ。一人の王族として、そして人として――たとえ違う国の民であろうと苦しむ人々の姿を見るのは堪えるものがあるのだろう。
こうして皆と一緒に長い戦いを乗り越えられてよかった。仲間達と過ごせる今日みたいな夜は、何物にも代えがたく尊いものだと思う。
「本当に……皆でここまで来られて嬉しい」
「うん。ぼくもきみも、無事で良かった」
マルスはそう言うと、私に向かって柔らかく目を細めた。それは私が一番大好きな彼の笑顔で、その笑顔を見るだけで胸がいっぱいになってしまう。
きっとマルスは、私なんかよりも戦場のことをよく知っている。知りたくないことも、知らない方がいいことも沢山知っている。だからこそ、私の無事を喜んでくれたのが心から嬉しかった。彼には沢山の仲間がいて、無事を祈りたい人も沢山いるから――
ああ、やっぱり私はこの人のことが好きだ。この笑顔が、優しい声が、誰よりも優しい心が好き。自分の気持ちに嘘をつきたくなくて、私は服の裾をぐっと握って口を開いた。
「じ、実は今日、マルスに渡したいものがあって」
「渡したいもの?」
唇は震えたけど、切り出せた。服のポケットに忍ばせてきた小さな贈り物を取り出す。
「これを、渡したくて……」
「これは?」
「えっと、アンクレットなんだけど……マルス、向こうでの戦いの途中で来てくれたって言ってたから。お守りにしてくれればと思って」
頭の中で何度も練習した言葉。私の声、早口だったり小声だったりしなかっただろうか。不安だったけれどその心配は杞憂だったようで、私の言葉を聞くと彼の表情はたちまち綻んだ。
「そうか……ありがとう」
マルスはそう言うと、私から手渡されたアンクレットを月明かりに照らして眺め始めた。私が一生懸命編んだ、色とりどりの糸が輝いている。
「マルスは、仲間のことをすごく大事にしているよね。アカネイアの人達も、アスクの人達も、それ以外の人達も」
「うん」
「だから、『仲間みんなと帰って来られますように』って気持ちを込めて……編んだんだ」
「そうか……」
彼は私がアンクレットに込めた思いを聞くと嬉しそうな横顔でためつすがめつ眺め、また私の方を向き直した。
「ありがとう。大切にするよ」
「よかった……」
彼の喜ぶ顔に、ほっと胸を撫で下ろす。手作りなんて重くないだろうかと考えていたので、嬉しそうな彼を見て一安心だ。頑張って編んだ甲斐があった。
「きみは、いつもぼくのことを気に掛けてくれるね」
「えっ」
思ってもいなかった彼からの言葉に、情けなく声が裏返る。
「え、と、そうかな」
「うん。きみは、いつも優しいよ」
彼はそう言うとその場にしゃがみ込み、ゆっくりとアンクレットを自らの左足首に装着した。
「……このアンクレットと一緒に、アカネイアに戻れたらいいのにね」
マルスはそう呟くと、また私に向かって微笑んだ。
「あ……」
私は思わず息を呑んでしまった。だって、彼があまりにも寂し気な顔で笑うから。
私が渡したアンクレットは、彼の体がアスクからアカネイアに戻るときに恐らく消滅する。そのことは彼も分かっているはずだ。しかし彼は私の贈り物を受け取ってくれた。彼は、私の気持ちごと受け取ってくれたのだ。
でも――、明日にはお別れしないといけないという事実が痛いほど胸を締めつける。やっぱり、寂しい。こんなに優しい人ともう会えないなんて、嘘であってほしい。
私たちの間に沈黙が訪れて、ざあと夜風が吹く。はたはたと音を立ててマルスのマントが靡いた。
「あっ、マルス様! こちらにいらっしゃったのですね」
突然の声に驚き、はっと後ろを振り向くと建物の影から赤い人影が。マルスの近衛騎士の一人であるカインが、マルスを探しに来ていたようだ。彼はマルスの隣に立つ私の姿を認めると、軽く会釈をした。
「カインじゃないか。どうしたの?」
「はっ、お話の最中でしたようで申し訳ございません。実はまたチェイニーが悪戯をしているようで、チキがマルス様を呼んでほしいと……」
「そうか……すぐ行くよ」
「ありがとうございます。私は先に参りますので――失礼致します」
カインはマルスと私に一礼をすると、先に大広間の方へと急いで行ってしまった。まさしく彼の異名である『猛牛』を思わせる力強い足取り――チェイニーは一体何をしでかしたのだろう……。
そんな彼とは対象的に、カインを見送ったマルスは困ったように眉根を下げていた。
「ごめん、ぼく――」
「うん。私は大丈夫だから、早く行ってあげて」
少し寂しいが仕方がない。顔の広いマルスのことだ、彼と二人きりになる機会ができたとしても遅かれ早かれこうなることは予想していた。きっと私も彼も宴会場に戻ればもう話す機会も巡ってこないだろう。カインが来たのがプレゼントを渡した後で良かった。
「ええと、さっきの話の続きなんだけど。また送還の時にも話はしたいんだけど――……どうか、向こうでも無事でいてね」
「ああ。きみもどうかお元気で」
「ありがとう。じゃあ、またね」
「うん。またね」
マルスはもう一度だけ軽く微笑むと、カインの来た道を追って行ってしまった。彼のコツコツという足音が聞こえなくなると、緊張の糸が解けた私はバルコニーの手すりにぐたりとしなだれた。ひやりとした石の感触が私の頬の熱を冷ます。曖昧に顔を上げた私は、夜風でざあざあと揺れる草木をぼうっと眺めていた。
ああ……緊張した……‼
でもちゃんとプレゼントを渡せて、言いたかったことまで言えて本当に良かった。彼に掛けてもらった言葉もすっごく嬉しかった。
私一人だけだったら、絶対このバルコニーにすら来られていなかったと思う。シャロンが背中を押してくれたから、私は勇気を出せたのだ。しばらく休んだら、大広間に戻ってシャロンにお礼を――
「召喚師さまっ!」
「ぎゃ⁉」
突然視界が手で覆われて真っ暗になった。そのまま後ろからぐいと引っ張られ、背中が持っていかれる。ともするとバランスを崩しそうだ。
「待っ――シャロン、力、強いよ」
「あははっ、ごめんなさい!」
ぱっと手を外してみせたシャロンは、私の顔を見ると困ったように笑った。口元は笑ってるけど、眉根が下がってる。あまり見たことのない、珍しい表情だ。
「もう、急にどうしたの?」
「ごめんなさい、召喚師さまが心配で……マルスさんとちゃんと話せました?」
「……うん、お陰様で。ありがとう」
私が改めてお礼を述べると、彼女はニッと笑って自分の胸を叩いた。
「ふふ。私のお陰ですねっ!」
「あはは、ほんとにシャロンがいてくれなかったら私はきっとここにいなかったよ」
「もう……召喚師さまったら、褒めすぎですよぉ!」
シャロンが照れたように頭を掻く。ころころと表情を変える彼女の様子がなんだかおかしくて思わず吹き出すと、隣で彼女もつられて笑い出した。
ひとしきり笑い合うと、私達はどちらからともなく大広間に向かって歩き出した。何事も無かったかのように席に戻った私達は、残りの時間を二人で過ごしたのだった。
次の日の朝から送還の儀が始まった。
ブレイザブリクによって召喚された英雄達は、言わば元の世界から『借りてきている』形である。召喚した英雄はこの世界で何年も過ごすことも可能ではあるが、お互いの世界の均衡を保つため最終的には元の世界に戻らねばならない。
そして召喚と対になる行為である『送還』は、召喚した英雄を元の時点に戻すことができる。空間を超えると同時に時間を遡ることによって、英雄を元の年齢に戻し、元いた場所に戻すことができるのだ。
つまり、召喚によって借りてきた英雄というのは、送還によって肉体と精神が巻き戻されたような状態になるのであり――通常は、この世界での記憶も消滅する。
そう、彼らが元の世界に戻ると、この世界で出来た仲間も、戦いで受けた傷も、この世界の美しい風景の記憶も――全て喪うのである。
この事実は、アスクに召喚したその時に私自身が全員に説明していることだ。もちろん、マルスもその例外ではなかった。彼にこのことを説明した数年前は、彼との別れがこんなに辛くなるなんて想像さえしていなかったけれど。
昨夜彼に渡した、手編みのアンクレット。あれにお守りとしての願いを込めたのも嘘じゃない。だけど本当は、マルスに私のことを覚えてほしいという願いも込めて編んだものだった。
彼が時空を超えるときにもし万が一アンクレットも残ってくれたら、向こうに戻ってもアスク王国のことや私達のことを覚えていられるかもしれないと思った。わがままだとは思うけど、彼が元の世界に帰ってからも私のことを思い出してほしかった。彼が私という存在を、少しでも心に留めていてほしいと思ったのだ。
でも、そんなことが起こるのは本当に万が一のことだから――、だからこそ私は彼にプレゼントを渡せたのだと思う。
召喚の遺跡から遠くない場所に、送還の門がある。普段はただの巨大な石造りの門だけれど、ブレイザブリクを携えて呪文を告げると魔力が宿り、たちまち英雄達を元の時空へ帰す門となるのだ。
そんな送還の門で、私達特務機関は朝から英雄を送還する儀式を執り行っていた。儀式と言っても、呪文や神器が必要な部分は初めに門に魔力を宿す工程だけだから、あとはこれから元の世界に戻っていく英雄達に挨拶をして見送っていくだけだ。でも、これも大事な仕事だった。
「一緒に戦ってくれてありがとう、元気でね」
「うん! ここでの生活楽しかったよ、ありがとう!」
これから元の世界に帰る英雄と一人ずつ挨拶をする。時には硬く握手を交わしたり、私達との別れを惜しんだり、涙を流したり。中には、別れを惜しんでなかなか門をくぐってくれない英雄もいた。送還の日は泣かないって決めていたけど、時には泣きながら抱き着いてくるような人もいたりして、流石にその時は貰い泣きしそうになった。
「お身体に気を付けてくださいね」
「元気でな」
「絶対また会おうね!」
英雄達はそう言って門をくぐると、皆光に包まれて瞬きする間に跡形もなく消えていく。私は英雄達を見送りながら、その現実味の無い光景をただひたすら受け入れていた。しかしその現実味の無さが幸いしたと言うべきか、今までなんとか皆のことを笑顔で見送ることができていた。
大丈夫、この調子ならきっと彼のことも笑顔で見送れる。私は眩い光に手を振りながら考えていた。
「召喚師さま、お疲れ様です!」
お昼休憩の最中、遺跡のある丘でパンをかじっているとシャロンが話し掛けてきてくれた。
「ありがとう、シャロンもお疲れ様」
私が挨拶をすると、シャロンも私の隣で腰を下ろした。
何せ数百人もいる英雄達を全員送還させねばならないのだから、人手も必要になってくる。シャロンには、今回の儀式に際して主に英雄達の確認や誘導を手伝ってくれていた。
私がパンをかじる隣で静かに果物に口を付けていたシャロンだったが、やがて手を止めてぽつりと言葉を零した。
「マルスさん……今日でお別れですね」
心臓がぐらりと揺れる。頭では分かってたけど、こうして他人に改めて言われると動揺してしまう。
「……うん」
「大丈夫そうですか?」
「うん。最後は笑顔で見送ろうって決めてるから」
そう言って彼女に軽く微笑んでみせる。自分は大丈夫なつもりなのだけど、隣のシャロンは不安そうに眉根を下げていた。
「……だって、昨日の夜に言いたかった言葉は全部言えたんだもん。もう後悔はないよ」
「召喚師さま……」
きっと、彼女は私が無理をしていないか心配してくれているのだろう。
確かにマルスとの別れが惜しい気持ちは勿論あるけれど、後悔はしていない。ちゃんとプレゼントは渡せたし、彼も笑顔で受け取ってくれたから。
それに見送る側の私が涙を流したりなんかしたら、それこそマルスを困らせてしまうだろう。だからちゃんと笑顔で見送りたいのだ。
「だからシャロンも心配しないで」
「……分かりました!」
私の言葉を聞くと、彼女は小さく微笑んで返事をしてくれた。良かった、彼女が穏やかな顔をすると私の心も安心する。
「多分そろそろ時間だよ、行こう」
「はい!」
立ち上がって再び送還の門へと戻る。シャロンと二人で並んで歩いていると、遠くのアスク王城からゴーン、ゴーンとお昼の鐘が微かに聞こえてきた。
お昼休憩が明けてからも送還の儀は続いた。召喚した英雄の数が多いので一人ずつ挨拶しているとどうしても時間が掛かってしまう。でも皆何年もの間私達に力を貸してくれていたのだ、ちゃんと挨拶を交わしてからお別れをしたかった。
そうしている間に日が暮れ――月が空に昇った頃、ようやく最後の一人となった。送還の門の光を受ける彼は白い煌めきを受けていた。まるで昨夜見た光景のようで、心がぎゅっと締めつけられる。
「やぁ、こんばんは」
「マルス……」
この世界と元の世界の均衡をなるべく保つため、送還は一番新しく召喚された英雄から遡って行われる。従って、私が初めて召喚した英雄であるマルスは一番最後に送還されることとなっていた。
私と目が合うと、マルスは柔らかく微笑んだ。その笑顔は出会った時と同じで優しくて、でもどこか寂しげで――私は文字通り言葉を失ってしまい、何を言えばいいのか分からなくなってしまった。
「……マルス、元気でね」
「うん。きみもね」
月並みと言うか、余白を埋めるための言葉しか思い付かない。もっと言いたいことが沢山あったはずなのに。
しかし、そんな私の言葉にも彼はまた微笑んでくれた。でもその笑顔は今まで見たどの笑顔とも違う気がする。それはきっと気のせいではなくて――こうして言葉を交わすことができるのがこれで最後だということを、彼が意識しているからだと思った。
「マルス、あのね……私、貴方に会えて良かった。これからずっと会えなくなるなんてまだ信じられない」
「うん、ぼくも――きみに会えて本当に良かったよ」
ああ――私の言葉に彼が頷いてくれるだけでこんなにも嬉しい。私がお礼の言葉を返そうとすると、彼が言葉を続けた。
「確かに二度と会えなくなるのかもしれないけど、きみとの思い出が消えることは無い。だから、またいつかどこかで会える日が来るかもしれないね」
「!――」
目を瞠った。心が震えるかのようだった。きみとの思い出が消えることは無い、なんて言われると思っていなかったから。今日を境に私と彼の運命はもう交わらないものだと思っていた。
ああ、やっぱりマルスとお別れなんかしたくないよ。だって、マルスのことがこんなにも好きなんだもの。喉の奥が熱くなって、何か言いたいのにどうしても言葉がつっかえる。
「ありがとう、またね」
そう言うと彼は背を向け、送還の門へと歩を進めた。溢れそうな気持ちは涙となって、私の頬を伝う。
「私、マルスとまた会いたいよ」
「うん、ぼくも会いたい……いつか絶対に会おう」
彼の言葉に何度も頷きながら、私は溢れる涙を拭うことしか出来なかった。だってマルスの顔を見たら、また泣いてしまうと思ったから。彼のことは笑顔で見送ろうって決めてたから。
私が目を閉じて俯いていると、瞼の裏が明るくなった――きっと彼が送還の門の光に包まれているのだ。最後に彼の目を見ようと私が顔を上げると、彼は私に向かって優しく微笑んでいた。
「またね」
その笑顔が、私が見た最後のマルスの姿となった。彼の笑顔は光に包まれ、次の瞬間には跡形もなく消えてなくなってしまっていた。
「マル、ス……」
門の光が消えると、彼の姿はもうそこにはなかった。英雄達が門をくぐって消えていく姿は今日何度も目にしたはずなのに、急に自分の中で現実になった気がして、辛くて堪らなくなり涙が止まらなくなった。
拠り所を失くした私はその場にうずくまって、声を上げて泣いた。ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。大人になってからこんなに泣くのは初めてだ。結局マルスの前でも泣いてしまったのに、まだ泣くのかと思った。
「召喚師さま」
独りで泣いているとシャロンが私の隣に来て、背中を撫でてくれた。彼女の手も少し震えているようだ。
「シャロン……私、うまく笑えてたかな」
彼を笑顔で送り出した自信が無くて、私はぼろぼろと涙を溢しながら彼女に尋ねた。
「マルスさん、きっとですけど、笑顔で門をくぐってましたよね?」
「うん……」
「じゃあ、きっと大丈夫です! マルスさんもお話できて嬉しかったと思いますよ!」
ああ、本当にマルスがそう思っていたら嬉しいな……。マルスが笑顔でいてくれたなら、私の気持ちも報われるような気がする。
「うん……ありがとう」
それからしばらく、シャロンの隣で泣かせてもらった。彼女が背中をさすってくれたけど、なかなか涙が止まらなくて申し訳無く思った。
しばらくして落ち着いてから、シャロンと二人で王城まで戻らせてもらうことにした。
帰る道すがらふと空を見上げると、空には綺麗な星が浮かんでいた。アスクは、元いた世界とは違ってビルも何もないようなところだから、夜になると星空がよく見える。満天の星空――どの星も美しいけれど、どれだけ手を伸ばしてももう届かないのだろう。
「みんな行っちゃったね」
私がぽつりと呟くと、隣のシャロンが「そうですね」と答えた。
「でも、また会えますよ! だって、召喚師さまとマルスさんはもうお友達じゃないですか!」
「ふふ……うん、そうだね。きっとまた会えるよね」
「はい! だから……泣かないで、召喚師さま」
シャロンがそう言いながら背中をそっと撫でてくれる。まだ涙は零れるけれど、それでも私はもう泣かないと決めた。この先マルスともう一度会えたら笑顔で話せるように。
「またね、マルス」
私は星空にそっと呟いた。またきっと会える日を願って。
「……ス様、マルス様!」
自分の名を呼ぶ声に揺り起こされ、薄っすらとしていた意識が徐々に立ち上がっていく。
数年間行軍を続けてきた賜物で、いつしかぼくや仲間の騎士達は普段朝日が昇る前には自然に目を覚ますようになった。朝になると炊事や軍議、鍛錬がぼく達を待っているのだ。
しかしこうやって起こされるということは、何か良くないこと――例えば強襲や強奪などが起こったのだろう。今までもこうやって起こされることは少なくなかった。
目を開けると、見慣れた赤色の瞳が目に入る。ぼくを起こしていたのは、昨日同じ天幕で眠ったカインだった。彼はもうすっかり身支度が済んでいて、いつもの赤い鎧を身に着けている。やはり敵襲か。ぼくは枕元の剣に手を伸ばし、返事をした。
「カインおはよう、もしかして敵が?」
「あ……! おはようございます、マルス様」
ぼくが体を起こすのを見ると、カインはほっとしたような表情を浮かべて挨拶を返した。何があったのだろうと思って身構えたけれど、彼の口から特に何か用事が続く訳でもない。それにどうしてぼくが起きただけで安心したような顔をされるのか分かず、訳を知りたくて彼に尋ねた。
「どうしたの? そんな顔をして」
「いえ、失礼致しました。実はその、朝日が昇ってもマルス様が起きられないもので――シーダ様が『きっとお疲れだから』と仰ってそのままお休みになっていただいていたのですが、もうそろそろ起きていただかないといけない時間でして」
「えっ」
そんな馬鹿な。彼の言葉を聞いたぼくが慌てて天幕の外を覗くと、確かに眩しい青空が広がっていた。日が昇ってもう結構な時間になっているらしい。普段早く目が覚めることはあれど寝過ごすことは滅多にないので、俄には信じられなかった。
「大丈夫ですか、お身体の調子は」
「う、うん……大丈夫。ちょっと疲れていたのかもしれない。心配かけて申し訳なかったよ、シーダにも謝らなくちゃ」
「いえ、ではお支度を」
「ありがとう」
ぼくがお礼を述べると彼は一礼し、天幕を後にした。
さぁ急がなくちゃ、着替えを取り出そうと立ち上がると同時に違和感を覚えた。足首に何か引っ掛かっている?
「これ、は……」
再び腰を下ろして確認すると、見覚えのないアンクレットがぼくの足首に巻き付いていた。様々な色の紐で編まれていて、ぴかぴか光っている。でもこれはぼくの持ち物ではない。ぼくの物ではない――はずなんだけど――
「…………あれ――」
どうしてだろう、これは自分の物ではないはずなのに、どこか懐かしいと思っているぼくがいた。何でだろう、どこかで目にしたことがあるのか?
どこで……ぼくはこれを、どこで…………
どうしても思い出せない。でも――大切な、失くしてはいけない物のような気がする。色とりどりの紐の煌めきが、懐かしい故郷の海のように揺らめく。これが誰の物なのか、思い出そうとすると頭に靄が掛かってこれ以上進めなくなる。
「……――いや、今は行かなくちゃ」
ぼく達には護らなければいけないものがある。立ち向かわなければいけない戦いがある。この世界に再び平和をもたらすために、ぼくは剣を振るわなければならないのだ。小さく輝くアンクレットを眺めていると、不思議とそんな使命感で満たされる。
きっとこれは大切な人に貰った物なのだろう。どこか遠い世界、もしくはすごく昔にもらった大切なもの……。どうしてそう思うのか分からないけれど、戦いが終わるまでこれを失くしちゃいけないと思った。ぼくはアンクレットをそっと撫でると、立ち上がって身支度を始めた。
「よし」
今日も生き延びて、明日へ命を繋ごう。ぼくはアカネイアの美しい朝空に誓った。
そう言って彼は微笑む。どうしてそんなに穏やかな顔をしていられるの。どんどん遠くなっていく彼に、どれだけ腕を伸ばしても届かない。
「待って、マルス――」
『ごめんね、そろそろ行かなくちゃ』
「いやだ、お願い、行かないで」
マルスのことは笑顔で送り出したかった――こんなこと言いたくなかったはずなのに、彼を引き止める言葉と自分勝手な涙が止まらない。私の嗚咽に背を向けて、彼はその門へと歩を進めた。
『さようなら』
彼がそう小さく言うと彼の体は瞬く間に光に包まれていく。次に目を開けたときには――マルスは、もうどこにもいなくなっていた。
「マルス――‼」
そう叫んだ瞬間、私の声は夜の闇に吸い込まれていった。自分の放った声が小さく響く。目を開けると、そこは紛れもなく自分の私室だった。
「ゆ……ゆめ……?」
いつもの石レンガの天井に、いつものベッド。窓の向こうでは星が瞬いている。気付くと自分の汗で濡れた肌着がじっとりと体に張り付いていた。
今のマルスとのやり取りは、どうやら夢の出来事だったようだ。
「はぁ……」
夢とは言え、彼に対してあんな言葉を掛けた自分に嫌気が差す。私は寝転んだまま溜息を吐いて、ごろりと寝返りを打った。
……さっきマルスが足を踏み入れていたあれは、間違いなく送還の門――英雄が、元いた世界に戻るためのものだ。一度その門の向こうに足を踏み入れると、もうこちらの世界に戻ることはできない。あの門の向こうへと行くということは、これから先永遠に離れてしまうということと同じだ。
私は夢のことを早く忘れてしまいたくて、布団の中に隠れるように潜り込んで目を瞑った。瞼の暗闇を振り切りたくて、必死に眠ろうとした。
エンブラ帝国皇家を憑竜の呪いから解き放ったあの戦いから数年。
『アスクの人間を殺す』という本能から解放された帝国は、程なくしてアスク侵攻を無期限で停止することを宣言。両国の間に和平条約が結ばれたことにより、アスクとエンブラは良き隣国同士となった。
憑竜との戦いによって大きく荒れてしまった両国の復興もそれなりに進んできた頃、アスクとエンブラの間で重大な事項が決定された。それは、近いうちにそれぞれの国で召喚されていた英雄達を元の世界に送還させるということ。
そもそも英雄達はこの世界の住人ではなく、私達が勝手に異界から召喚した者達だ。彼らにもそれぞれの生活があり、愛する人がいて、立ち向かうべき戦いがある。長い間隔たれたままだったアスクとエンブラの溝が埋まった今、英雄達を元いた世界に帰すべきだという声が強まったことによって今回の事項が決まったのだという。
そう、もうしばらくしたらマルスは本当に帰ってしまうのだ。あの夢はでたらめなどではなく、きっと近いうちに現実になる。
「……はぁ」
マルスは、数年前私がこのアスクに来て初めて喚び出した英雄だった。
それまでの私は、毎日毎日ぱっとしない仕事をこなして家に帰って眠り、また仕事をするために出て行く――その繰り返しの中で何とかやっていた。
それがある日突然知らない世界にやって来たかと思えば、『世界を救う大英雄』『召喚師』などと持ち上げられ、言われるがままに神銃を振るわされたのがつい先日の出来事かのようだ。訳の分からぬままアルフォンスとシャロンに召喚の儀を執らされ、眩い光の後に現れたその青い瞳を今でも鮮明に思い出すことができる。
初めてエンブラ軍と交戦した時も、ムスペルの王スルトと対峙した時も、憑竜エンブラを討った時も――マルスは私の、私達の側にいてくれた。そして彼もまた突然召喚された身だと言うのに、私達のことをいつも気遣ってくれた。
そんな彼に特別な感情を抱くようになっていたのはいつからだろう。
初めはただの憧れの気持ちだけだった。早く彼のように戦えるようになりたかった。マルスは、優しくて芯のある男性だ。きっと性別関係なく多くの人が彼に惹かれて、もっと彼のことを知りたいと思うだろう。そう言う私もその一人だった。
マルスの隣で戦えるだけで嬉しかった。彼と同じ方を向いて進んでいることが嬉しかった。でも、彼のことは好きだけど、恋仲になることは望んでいなかった。私が思いを伝えるのは、誰にも望まれていないことだからだ。私は誰の笑顔だって壊したくないのだ。
「はあ……」
溜息を吐きながら王城の倉庫のすみっこで屈みこむ。腰を下ろすと、色んなところに埃が被っていることに気が付く。
英雄達がアスクを離れるのに際して、王城の中に大量に存在する武具を整理するのが今日の私の仕事だ。召喚された際に既に武具を持っている英雄が多いせいで、王城には大量の剣やら鎧やら魔道書やらが溜まっていく一方だった。今までは使わなくなったものでも念のため残していたけど、英雄たちがアスクから居なくなるのであれば流石に整理が必要だ――ということで、今日は一日大掃除の日なのである。
埃の被る武具たちを眺めていると、色々なことを思い出す。これはあの人が鍛錬で使っていたもの、これはあの子が譲ってくれたもの。剣の刃先はこぼれているし、鎧だって傷だらけだ。戦っているときは皆命懸けだったけれど、平和な時代が訪れた今では傷の一つ一つが愛おしく感じる。
(懐かしい……)
小さな窓から差す陽の光に当たって、埃がきらきらと舞っている。早く掃除しなきゃ、と思えば思うほど昔に思いを馳せるのをやめられない。と、積み上がった本の山の中に一冊見慣れた魔道書があることに気付いた。
(これは……)
よく見ると、それはブリザーの魔道書だった。――確かこれって、スルトと戦った時の……。脳裏にあの神殿の熱気が蘇る。
『っ! ブリザー!』
呪文を唱えると、冷気が爆ぜる音とともに右腕から氷の柱が放たれ、目の前の炎が一瞬で凍りついた。
――魔道だ! 私、魔道が使えるようになったんだ‼
……ああ、懐かしい。あれももう数年前のことか……。あの日の夜、マルスと会話を交わしたときから彼のことを好きになったんだっけ。何年も一人の人が好きなんて、それだけ聞けば一途な人みたいなんだけど、彼には婚約者がいるからなあ……
なんてもう慣れてしまった苦い気持ちも一緒にしまうように、ブリザーの魔道書を閉じる。どうしようかな、やっぱり処分するのはもったいない気がする――
「召喚師さまっ!」
「うわっ⁉」
ばしっという音ともに背中に衝撃が走る。叩かれた!
誰だと振り返ると、そこにはシャロンが立っていた。私のノスタルジックな気持ちなんてつゆ知らず、彼女はいつもの朗らかな表情で私に手を振る。
「お疲れ様です! 作業進んでますか?」
「あ――」
「皆さんが帰る前にキレイにしておかないとですよ――って、あらら、これは……」
言われて手元を見ると、錆びた剣の束に埃の被った矢筒が沢山。これではまるで手を動かしてないのがバレバレだ。
「いや〜、サボってるのバレちゃった」
「あはは! 召喚師さまでもお仕事サボるときもあるんですねっ」
「うん、色んなもの見てると懐かしくなっちゃって」
「ああ、わかります! 大掃除してると色んなもの発見して懐かしくなっちゃいますよね〜」
ゴーン、ゴーン――。
彼女がそう言った次の瞬間、お昼を告げる鐘が鳴った。もうそんなに時間が経っていたのか。
鐘の音を聞いたシャロンはぴょいっと跳ねるような真似を見せると、私の腕をぐいと引っ張った。
「ほらほら、今日もお隣でご飯食べましょう♪ 行きますよ!」
「わっ、ちょっとあぶな――」
「今日のお昼はハンバーグだそうですよっ!」
彼女に腕を引かれるようにして倉庫を離れる。背中からガシャガシャと矢の山が崩れるような音が聞こえたような気がするが、今の私におてんば王女の腕から逃れる術は無かった。
◆ ◆ ◆
「召喚師さま、いよいよ今日ですね!」
私が昼食のハンバーグを口に運ぼうとしていると、向かいの席からシャロンが身を乗り出して話し掛けてきた。
急にその話題を振られるとは思わず、手元のフォークとナイフが皿に落ちてガチャンと鋭い音が鳴ってしまった。自分で鳴らした音にドキリとして辺りを見回すが、皆それぞれの食事や会話に夢中のようで私達に気を向けている者はいなさそうだ。
「やっぱり緊張しますか?」
「そりゃもちろん……」
「大丈夫ですって! マルスさんならきっとニコッと笑って『ありがとう』って受け取ってくれますよ!」
パチン、といつもの可愛らしいシャロンのウィンク。最初に彼女と出会ったときからはお互いいくつか年を取ってしまったけど、彼女のその可愛らしさはずっと変わらない気がする。
私とシャロンは、ある計画を実行する予定であった。二人で何度も作戦会議を重ねついに固めた計画――それは、今夜開かれる送別の宴でマルスに贈り物を贈ること。
『今まで共に戦ってきた英雄達が離れ離れになってしまう前に、最後の宴を開こう』――英雄達の送還を前に、誰かがそう言った。その言葉がいつの間にかアルフォンスとシャロンの耳にまで届き、彼らの賛同によって今夜宴が開かれることとなった。
そして……、そこで私はマルスに贈り物を贈ることにした――いや、なってしまったのである。
手元に意識を戻して、フォークとナイフを握り直す。フォークで葉菜を掬って口に運んだ。
私はマルスのことが好きだ。……ということは、自分が元の世界に帰れるまで胸の内に秘めておくつもりだった。というより、あえて自分の感情を深追いしないことで心の中に閉じ込めておこうとしていた。彼の隣には既に大切な人がいて、そして彼の故郷は戦禍に見舞われているから。彼の大切なもの達を侵せるほど、自分は立派な人間ではない。
しかし初めはシャロンにうっかり秘密を漏らしてしまって、噂が広まったりしないか心配だった。でも意外と(ちょっと失礼だけど)彼女は口が堅くて、今まで誰かにこの秘密が漏れている様子は無い。それどころか私のことを気遣ってくれて、叶わぬ恋だと分かっているにも関わらずこうして応援までしてくれている。そのことが本当に嬉しくて、今まで何度彼女の優しさに助けられたことか。
「宴の最中、一人になったマルスさんを狙って私と二人で話し掛けて、最後に用意したプレゼントを渡す! これでバッチリ、作戦完了です!」
「うん――あぁ……上手く渡せるかなぁ」
「大丈夫ですって! このシャロンが付いてますから!」
誇らしげに自らの胸を叩く彼女。屈託の無い笑顔が光り輝く。
今回渡すプレゼントだってあくまで餞別という名目であって、愛の告白をするつもりは毛頭無い。それでも怖気づいている私に、シャロン王女はこうして付いてくると言ってくれているのだ。
「そうだね、ありがとう」
「今日、大丈夫そうですか?」
「うん、頑張るよ」
心配そうに見つめる彼女の言葉に頷くと、みるみる内に顔が明るくなった。この顔を見るといつだって安心する。
言葉とは不思議なもので、『頑張る』と口にするだけで本当に乗り越えられそうな気がしてくる。そうだ、頑張らないと。
「良かったです! 一緒に頑張りましょうね、召喚師さま‼」
また身を乗り出してきたシャロンを宥め、私達はそれぞれの食事に戻った。
そうだ、言ってる間にマルスとお別れしないといけない時が来るのだ。
これまでの長い戦いの中で今まで色々な相手と対峙してきたし、時には命の危険を感じるような場面も少なくなかった。
だけど、こうして自分自身の気持ちと向き合うのもとてつもなく大変なことだ。今の私には呑み込まないといけないことが多い。でも、このまま彼と永遠にお別れするのは嫌だ。これからも私が頑張っていくために、きちんと清算しなきゃ。
◆ ◆ ◆
『それでは、アスク王国の永久の平和を祈りまして――乾杯!』
アルフォンスの音頭で王城中が一斉に歓喜の声に包まれた。乾杯と嬉しそうに唱和する者、周りとグラスを交わす者など、賑やかな雰囲気で宴会は始まった。
今夜が杯を交わす最後の機会だからか、アスクに召喚した英雄たちは皆集まってくれているようだ。楽しげな声に混じって小さな英雄たちの声も聞こえてくる。そんな皆の様子を見ていると私もつられて笑顔になってくる――けれど。
(いつ話し掛けよう)
そのことばかりが気掛かりで、どうしても私はマルスの姿を目で追ってしまっていた。
マルスには、同じくアカネイア大陸からやってきた英雄達と同じテーブルに座ってもらっている。彼も自身の側近の人達や友人達に囲まれて楽しげに笑っていた。
そしてそんな彼の隣には、やはりと言うべきか、シーダが座っている。こちらからは彼女の横顔しか見えないけれど、マルスと嬉しそうにグラスを交わす彼女の姿はとても幸せそうだ。
遠くのテーブルから仲睦まじ気に会話を交わす二人を見ていると、思わず目を背けたくなる。何か見てはいけないものを見てしまったような、罪悪感のようなものに苛まれる。そんな私の様子に気付いたのか、マルスがこちらに視線を移した。その青い瞳に私が映っている。
「あ……」
私が逃げるように目を逸らすと、その視線の先にいたシャロンと視線がぶつかった。彼女はアスクの王家の人間として、アルフォンスの隣に座っている。シャロンは私と目が合うとにっこり笑ってグラスを口に運ぶジェスチャーをした。
元々彼女との作戦会議で、マルスにプレゼントを渡すのは宴会の中盤――マルスが一人になったときを狙う、という風に決めている。まだ宴会も始まったばかりだから、きっと『楽しみましょう!』とかそういうメッセージを送りたいのだろう。
私はそんなシャロンに頷き返すと、私は手元のグラスを口元へ運んだ。未だ揺らぐ決意をいい加減固めたかった私は、一気に中身を飲み干した。
英雄達が集う最後の機会だということもあり、宴会は大いに盛り上がった。これほど大きな宴会となると流石にシェフ達も気合いが入るのか、どの料理も美味しかった。
初めは皆にそれぞれ所定の位置で食事を楽しんでもらっていたけど、宴が盛り上がってくるとグラス片手に席を移って皆思い思いに楽しんだり、思い出話に花を咲かせたりしていた。
私はと言えば、緊張しすぎると良くないと思ってなるべくマルスの方を見ないようにしていた。幸いマルスのもとには沢山の英雄が集まっていたようで、私も安心した気持ちで他の英雄達と最後の時間を楽しむことができた。
「召喚師さま!」
料理をいくつか頂きワインも何杯か飲み切った頃だった。程よく上機嫌になった私が他の英雄達と話し込んでいると、向こうからシャロンが駆け寄ってきた。いつもと同じように見えるけど、いつもよりなんだか慌てているというか、ちょっと様子が変だ。
「あ、シャロン。どうしたの?」
「お兄様が呼んでるんです! 来てください、さ、早く!」
「えっ、ちょっと」
言うや否や、彼女は会話途中の私の腕を引いて歩き出した。一体何を考えているのか、私の静止も聞かずどんどん引っ張っていくので握られている腕が痛い。
「シャロン、何を――」
「マルスさんが一人なんですよ! 早くしないとまた誰か来ちゃうかもです!」
「!」
彼の名前を耳にした瞬間心臓が跳ね上がる。今の今まで忘れていた、――いや、考えないようにしていた決意が私の背中を震わせた。彼の元に行くには、もう少し心の準備が必要だ。せめて一旦止まりたい。
しかし、そんな私の気持ちなどいざ知らずシャロンの背中はどんどん進んでゆく。最初は早歩きくらいだったのに、段々加速してついにはほぼ走らされているも同然だった。夜のアスク王城に、カツカツと硬い足音が響く。宴会場を抜けた空気は冷たくて、酒精で火照った頬を冷ます。あっという間に大広間を抜け、階段を上り、バルコニーへと連れて来られてしまった。
「ちょっと、シャロ、ン……」
彼女がバルコニーの扉を開ける傍らで、すっかり息の上がってしまった私が彼女に文句を入れようと顔を上げると、扉の向こうでロイヤルブルーのマントが靡いていた。夜風ではためくそれに、私の目が奪われる。
(あ――)
遠目からでも彼の姿は分かった。月の光を受けて煌めくその髪を、見紛う訳がない。彼は一人、バルコニーから外を眺めていた。
「マルスさん、召喚師さまを連れて来ましたよ!」
シャロンが私の背中を押すようにしてマルスの目の前に押し出す。急に押されてよろめいたけれど、なんとか体勢を立て直すと目の前の彼を見上げた。
「ああ……ありがとう、シャロン王女」
丸い、彼の瞳を縁取った睫毛が僅かに伏せた。私よりも背の高い彼は、私と話すとき視線を下げてくれる。そんな彼と目が合うたびに、私はいつも緊張して息を呑んでしまうのだ。
でも今夜の緊張の仕方は普段のそれとは比べ物にならない。心の準備が間に合ってない。どうしよう、何か言わなくちゃ。私が言葉を探していると、先に彼が口を開いた。
「えっと、ぼくに話があるって聞いたけど……」
「えっ⁉」 ――話⁉ 「えっと、その」
そんな言い方をしたらまるで本当に私が彼に告白するみたいではないか……! それにそのために彼にここで待ってもらっていたかと思うと、なんだか申し訳無い気持ちだ。視線を色んなところに彷徨わせながら、私はなんとか言葉を絞り出した。
「えっと、マルスに、最後の挨拶をしたくて」
「ああ……! それならぼくも君と話しておきたかったから、ちょうど良かったよ」
彼はそう言うとわずかに微笑んだ。
ああ、よかった――。彼は嘘を言う人間ではない。マルスにとっては文字通り仲間一人一人のことが大切で、私にこう言われるのもきっと本当に嬉しいのだと思う。
ほんの少し彼と気持ちが重なるだけでも胸が温かくなる。でも私の心臓は未だにばくばくと早鐘を打ち続けている。いや大丈夫、このまま落ち着いてプレゼントを渡せば。しかし私が切り出す前に、マルスの言葉が先に続いた。
「そうだ、シャロン王女も良かったら話さないかい?」
「あ……! いえ、私はお兄様に呼ばれておりますので、そろそろ失礼致します!」
「へぇっ⁉」
シャロン、行っちゃうの⁉ 彼女の方をばっと振り向くと、パチンといつもの可愛らしいウィンク。きっと気を遣ってくれているのだろうけど、一人じゃ心細いよ……!
「そうか、引き止めてしまって申し訳無かったね」
「いえいえ、私も色んな英雄さんと話したかったですから! ではごゆっくり〜!」
ごゆっくり、って……! シャロンはそう言うと、私の返事も聞かずにそそくさとバルコニーを出て行ってしまった。開いた口が塞がらないとはこのことだ。私はどうすることもできず、ただ離れていくシャロンの背中をぼんやりと眺めることしかできなかった。
「えっと……今日はぼく達のためにありがとう」
私が固まっていると、彼の方から話題を振ってくれた。彼の方も気まずそうな雰囲気を纏っていてなんだか申し訳無い。
「あっ、いやそんな、むしろ私達のほうこそずっとマルス達に頼りきりだったんだし……こちらこそ、長い間アスクに力を貸してくれて本当にありがとう」
「うん。……もう戦いは終わったから、これからこの世界の人達が平和に暮らせるようになるといいね」
そう言ってバルコニーの手すりにもたれた彼の横顔は、夜風に吹かれる草木を見ていた。
きっと彼は、長く続いていたアスクとエンブラの戦いが終結したことが心から嬉しいのだろう。それは、自分が早く元の世界に帰りたいからというよりも、この世界の戦禍で苦しむ全ての人々を救いたかったからというのが大きな理由なのだと思う。
彼はよく『困っている人がいるなら、違う国の人でも違う世界の人でも関係ない』と言っていた。彼もかつて戦争によって祖国を追われた人だ。一人の王族として、そして人として――たとえ違う国の民であろうと苦しむ人々の姿を見るのは堪えるものがあるのだろう。
こうして皆と一緒に長い戦いを乗り越えられてよかった。仲間達と過ごせる今日みたいな夜は、何物にも代えがたく尊いものだと思う。
「本当に……皆でここまで来られて嬉しい」
「うん。ぼくもきみも、無事で良かった」
マルスはそう言うと、私に向かって柔らかく目を細めた。それは私が一番大好きな彼の笑顔で、その笑顔を見るだけで胸がいっぱいになってしまう。
きっとマルスは、私なんかよりも戦場のことをよく知っている。知りたくないことも、知らない方がいいことも沢山知っている。だからこそ、私の無事を喜んでくれたのが心から嬉しかった。彼には沢山の仲間がいて、無事を祈りたい人も沢山いるから――
ああ、やっぱり私はこの人のことが好きだ。この笑顔が、優しい声が、誰よりも優しい心が好き。自分の気持ちに嘘をつきたくなくて、私は服の裾をぐっと握って口を開いた。
「じ、実は今日、マルスに渡したいものがあって」
「渡したいもの?」
唇は震えたけど、切り出せた。服のポケットに忍ばせてきた小さな贈り物を取り出す。
「これを、渡したくて……」
「これは?」
「えっと、アンクレットなんだけど……マルス、向こうでの戦いの途中で来てくれたって言ってたから。お守りにしてくれればと思って」
頭の中で何度も練習した言葉。私の声、早口だったり小声だったりしなかっただろうか。不安だったけれどその心配は杞憂だったようで、私の言葉を聞くと彼の表情はたちまち綻んだ。
「そうか……ありがとう」
マルスはそう言うと、私から手渡されたアンクレットを月明かりに照らして眺め始めた。私が一生懸命編んだ、色とりどりの糸が輝いている。
「マルスは、仲間のことをすごく大事にしているよね。アカネイアの人達も、アスクの人達も、それ以外の人達も」
「うん」
「だから、『仲間みんなと帰って来られますように』って気持ちを込めて……編んだんだ」
「そうか……」
彼は私がアンクレットに込めた思いを聞くと嬉しそうな横顔でためつすがめつ眺め、また私の方を向き直した。
「ありがとう。大切にするよ」
「よかった……」
彼の喜ぶ顔に、ほっと胸を撫で下ろす。手作りなんて重くないだろうかと考えていたので、嬉しそうな彼を見て一安心だ。頑張って編んだ甲斐があった。
「きみは、いつもぼくのことを気に掛けてくれるね」
「えっ」
思ってもいなかった彼からの言葉に、情けなく声が裏返る。
「え、と、そうかな」
「うん。きみは、いつも優しいよ」
彼はそう言うとその場にしゃがみ込み、ゆっくりとアンクレットを自らの左足首に装着した。
「……このアンクレットと一緒に、アカネイアに戻れたらいいのにね」
マルスはそう呟くと、また私に向かって微笑んだ。
「あ……」
私は思わず息を呑んでしまった。だって、彼があまりにも寂し気な顔で笑うから。
私が渡したアンクレットは、彼の体がアスクからアカネイアに戻るときに恐らく消滅する。そのことは彼も分かっているはずだ。しかし彼は私の贈り物を受け取ってくれた。彼は、私の気持ちごと受け取ってくれたのだ。
でも――、明日にはお別れしないといけないという事実が痛いほど胸を締めつける。やっぱり、寂しい。こんなに優しい人ともう会えないなんて、嘘であってほしい。
私たちの間に沈黙が訪れて、ざあと夜風が吹く。はたはたと音を立ててマルスのマントが靡いた。
「あっ、マルス様! こちらにいらっしゃったのですね」
突然の声に驚き、はっと後ろを振り向くと建物の影から赤い人影が。マルスの近衛騎士の一人であるカインが、マルスを探しに来ていたようだ。彼はマルスの隣に立つ私の姿を認めると、軽く会釈をした。
「カインじゃないか。どうしたの?」
「はっ、お話の最中でしたようで申し訳ございません。実はまたチェイニーが悪戯をしているようで、チキがマルス様を呼んでほしいと……」
「そうか……すぐ行くよ」
「ありがとうございます。私は先に参りますので――失礼致します」
カインはマルスと私に一礼をすると、先に大広間の方へと急いで行ってしまった。まさしく彼の異名である『猛牛』を思わせる力強い足取り――チェイニーは一体何をしでかしたのだろう……。
そんな彼とは対象的に、カインを見送ったマルスは困ったように眉根を下げていた。
「ごめん、ぼく――」
「うん。私は大丈夫だから、早く行ってあげて」
少し寂しいが仕方がない。顔の広いマルスのことだ、彼と二人きりになる機会ができたとしても遅かれ早かれこうなることは予想していた。きっと私も彼も宴会場に戻ればもう話す機会も巡ってこないだろう。カインが来たのがプレゼントを渡した後で良かった。
「ええと、さっきの話の続きなんだけど。また送還の時にも話はしたいんだけど――……どうか、向こうでも無事でいてね」
「ああ。きみもどうかお元気で」
「ありがとう。じゃあ、またね」
「うん。またね」
マルスはもう一度だけ軽く微笑むと、カインの来た道を追って行ってしまった。彼のコツコツという足音が聞こえなくなると、緊張の糸が解けた私はバルコニーの手すりにぐたりとしなだれた。ひやりとした石の感触が私の頬の熱を冷ます。曖昧に顔を上げた私は、夜風でざあざあと揺れる草木をぼうっと眺めていた。
ああ……緊張した……‼
でもちゃんとプレゼントを渡せて、言いたかったことまで言えて本当に良かった。彼に掛けてもらった言葉もすっごく嬉しかった。
私一人だけだったら、絶対このバルコニーにすら来られていなかったと思う。シャロンが背中を押してくれたから、私は勇気を出せたのだ。しばらく休んだら、大広間に戻ってシャロンにお礼を――
「召喚師さまっ!」
「ぎゃ⁉」
突然視界が手で覆われて真っ暗になった。そのまま後ろからぐいと引っ張られ、背中が持っていかれる。ともするとバランスを崩しそうだ。
「待っ――シャロン、力、強いよ」
「あははっ、ごめんなさい!」
ぱっと手を外してみせたシャロンは、私の顔を見ると困ったように笑った。口元は笑ってるけど、眉根が下がってる。あまり見たことのない、珍しい表情だ。
「もう、急にどうしたの?」
「ごめんなさい、召喚師さまが心配で……マルスさんとちゃんと話せました?」
「……うん、お陰様で。ありがとう」
私が改めてお礼を述べると、彼女はニッと笑って自分の胸を叩いた。
「ふふ。私のお陰ですねっ!」
「あはは、ほんとにシャロンがいてくれなかったら私はきっとここにいなかったよ」
「もう……召喚師さまったら、褒めすぎですよぉ!」
シャロンが照れたように頭を掻く。ころころと表情を変える彼女の様子がなんだかおかしくて思わず吹き出すと、隣で彼女もつられて笑い出した。
ひとしきり笑い合うと、私達はどちらからともなく大広間に向かって歩き出した。何事も無かったかのように席に戻った私達は、残りの時間を二人で過ごしたのだった。
◆ ◆ ◆
次の日の朝から送還の儀が始まった。
ブレイザブリクによって召喚された英雄達は、言わば元の世界から『借りてきている』形である。召喚した英雄はこの世界で何年も過ごすことも可能ではあるが、お互いの世界の均衡を保つため最終的には元の世界に戻らねばならない。
そして召喚と対になる行為である『送還』は、召喚した英雄を元の時点に戻すことができる。空間を超えると同時に時間を遡ることによって、英雄を元の年齢に戻し、元いた場所に戻すことができるのだ。
つまり、召喚によって借りてきた英雄というのは、送還によって肉体と精神が巻き戻されたような状態になるのであり――通常は、この世界での記憶も消滅する。
そう、彼らが元の世界に戻ると、この世界で出来た仲間も、戦いで受けた傷も、この世界の美しい風景の記憶も――全て喪うのである。
この事実は、アスクに召喚したその時に私自身が全員に説明していることだ。もちろん、マルスもその例外ではなかった。彼にこのことを説明した数年前は、彼との別れがこんなに辛くなるなんて想像さえしていなかったけれど。
昨夜彼に渡した、手編みのアンクレット。あれにお守りとしての願いを込めたのも嘘じゃない。だけど本当は、マルスに私のことを覚えてほしいという願いも込めて編んだものだった。
彼が時空を超えるときにもし万が一アンクレットも残ってくれたら、向こうに戻ってもアスク王国のことや私達のことを覚えていられるかもしれないと思った。わがままだとは思うけど、彼が元の世界に帰ってからも私のことを思い出してほしかった。彼が私という存在を、少しでも心に留めていてほしいと思ったのだ。
でも、そんなことが起こるのは本当に万が一のことだから――、だからこそ私は彼にプレゼントを渡せたのだと思う。
召喚の遺跡から遠くない場所に、送還の門がある。普段はただの巨大な石造りの門だけれど、ブレイザブリクを携えて呪文を告げると魔力が宿り、たちまち英雄達を元の時空へ帰す門となるのだ。
そんな送還の門で、私達特務機関は朝から英雄を送還する儀式を執り行っていた。儀式と言っても、呪文や神器が必要な部分は初めに門に魔力を宿す工程だけだから、あとはこれから元の世界に戻っていく英雄達に挨拶をして見送っていくだけだ。でも、これも大事な仕事だった。
「一緒に戦ってくれてありがとう、元気でね」
「うん! ここでの生活楽しかったよ、ありがとう!」
これから元の世界に帰る英雄と一人ずつ挨拶をする。時には硬く握手を交わしたり、私達との別れを惜しんだり、涙を流したり。中には、別れを惜しんでなかなか門をくぐってくれない英雄もいた。送還の日は泣かないって決めていたけど、時には泣きながら抱き着いてくるような人もいたりして、流石にその時は貰い泣きしそうになった。
「お身体に気を付けてくださいね」
「元気でな」
「絶対また会おうね!」
英雄達はそう言って門をくぐると、皆光に包まれて瞬きする間に跡形もなく消えていく。私は英雄達を見送りながら、その現実味の無い光景をただひたすら受け入れていた。しかしその現実味の無さが幸いしたと言うべきか、今までなんとか皆のことを笑顔で見送ることができていた。
大丈夫、この調子ならきっと彼のことも笑顔で見送れる。私は眩い光に手を振りながら考えていた。
「召喚師さま、お疲れ様です!」
お昼休憩の最中、遺跡のある丘でパンをかじっているとシャロンが話し掛けてきてくれた。
「ありがとう、シャロンもお疲れ様」
私が挨拶をすると、シャロンも私の隣で腰を下ろした。
何せ数百人もいる英雄達を全員送還させねばならないのだから、人手も必要になってくる。シャロンには、今回の儀式に際して主に英雄達の確認や誘導を手伝ってくれていた。
私がパンをかじる隣で静かに果物に口を付けていたシャロンだったが、やがて手を止めてぽつりと言葉を零した。
「マルスさん……今日でお別れですね」
心臓がぐらりと揺れる。頭では分かってたけど、こうして他人に改めて言われると動揺してしまう。
「……うん」
「大丈夫そうですか?」
「うん。最後は笑顔で見送ろうって決めてるから」
そう言って彼女に軽く微笑んでみせる。自分は大丈夫なつもりなのだけど、隣のシャロンは不安そうに眉根を下げていた。
「……だって、昨日の夜に言いたかった言葉は全部言えたんだもん。もう後悔はないよ」
「召喚師さま……」
きっと、彼女は私が無理をしていないか心配してくれているのだろう。
確かにマルスとの別れが惜しい気持ちは勿論あるけれど、後悔はしていない。ちゃんとプレゼントは渡せたし、彼も笑顔で受け取ってくれたから。
それに見送る側の私が涙を流したりなんかしたら、それこそマルスを困らせてしまうだろう。だからちゃんと笑顔で見送りたいのだ。
「だからシャロンも心配しないで」
「……分かりました!」
私の言葉を聞くと、彼女は小さく微笑んで返事をしてくれた。良かった、彼女が穏やかな顔をすると私の心も安心する。
「多分そろそろ時間だよ、行こう」
「はい!」
立ち上がって再び送還の門へと戻る。シャロンと二人で並んで歩いていると、遠くのアスク王城からゴーン、ゴーンとお昼の鐘が微かに聞こえてきた。
お昼休憩が明けてからも送還の儀は続いた。召喚した英雄の数が多いので一人ずつ挨拶しているとどうしても時間が掛かってしまう。でも皆何年もの間私達に力を貸してくれていたのだ、ちゃんと挨拶を交わしてからお別れをしたかった。
そうしている間に日が暮れ――月が空に昇った頃、ようやく最後の一人となった。送還の門の光を受ける彼は白い煌めきを受けていた。まるで昨夜見た光景のようで、心がぎゅっと締めつけられる。
「やぁ、こんばんは」
「マルス……」
この世界と元の世界の均衡をなるべく保つため、送還は一番新しく召喚された英雄から遡って行われる。従って、私が初めて召喚した英雄であるマルスは一番最後に送還されることとなっていた。
私と目が合うと、マルスは柔らかく微笑んだ。その笑顔は出会った時と同じで優しくて、でもどこか寂しげで――私は文字通り言葉を失ってしまい、何を言えばいいのか分からなくなってしまった。
「……マルス、元気でね」
「うん。きみもね」
月並みと言うか、余白を埋めるための言葉しか思い付かない。もっと言いたいことが沢山あったはずなのに。
しかし、そんな私の言葉にも彼はまた微笑んでくれた。でもその笑顔は今まで見たどの笑顔とも違う気がする。それはきっと気のせいではなくて――こうして言葉を交わすことができるのがこれで最後だということを、彼が意識しているからだと思った。
「マルス、あのね……私、貴方に会えて良かった。これからずっと会えなくなるなんてまだ信じられない」
「うん、ぼくも――きみに会えて本当に良かったよ」
ああ――私の言葉に彼が頷いてくれるだけでこんなにも嬉しい。私がお礼の言葉を返そうとすると、彼が言葉を続けた。
「確かに二度と会えなくなるのかもしれないけど、きみとの思い出が消えることは無い。だから、またいつかどこかで会える日が来るかもしれないね」
「!――」
目を瞠った。心が震えるかのようだった。きみとの思い出が消えることは無い、なんて言われると思っていなかったから。今日を境に私と彼の運命はもう交わらないものだと思っていた。
ああ、やっぱりマルスとお別れなんかしたくないよ。だって、マルスのことがこんなにも好きなんだもの。喉の奥が熱くなって、何か言いたいのにどうしても言葉がつっかえる。
「ありがとう、またね」
そう言うと彼は背を向け、送還の門へと歩を進めた。溢れそうな気持ちは涙となって、私の頬を伝う。
「私、マルスとまた会いたいよ」
「うん、ぼくも会いたい……いつか絶対に会おう」
彼の言葉に何度も頷きながら、私は溢れる涙を拭うことしか出来なかった。だってマルスの顔を見たら、また泣いてしまうと思ったから。彼のことは笑顔で見送ろうって決めてたから。
私が目を閉じて俯いていると、瞼の裏が明るくなった――きっと彼が送還の門の光に包まれているのだ。最後に彼の目を見ようと私が顔を上げると、彼は私に向かって優しく微笑んでいた。
「またね」
その笑顔が、私が見た最後のマルスの姿となった。彼の笑顔は光に包まれ、次の瞬間には跡形もなく消えてなくなってしまっていた。
「マル、ス……」
門の光が消えると、彼の姿はもうそこにはなかった。英雄達が門をくぐって消えていく姿は今日何度も目にしたはずなのに、急に自分の中で現実になった気がして、辛くて堪らなくなり涙が止まらなくなった。
拠り所を失くした私はその場にうずくまって、声を上げて泣いた。ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。大人になってからこんなに泣くのは初めてだ。結局マルスの前でも泣いてしまったのに、まだ泣くのかと思った。
「召喚師さま」
独りで泣いているとシャロンが私の隣に来て、背中を撫でてくれた。彼女の手も少し震えているようだ。
「シャロン……私、うまく笑えてたかな」
彼を笑顔で送り出した自信が無くて、私はぼろぼろと涙を溢しながら彼女に尋ねた。
「マルスさん、きっとですけど、笑顔で門をくぐってましたよね?」
「うん……」
「じゃあ、きっと大丈夫です! マルスさんもお話できて嬉しかったと思いますよ!」
ああ、本当にマルスがそう思っていたら嬉しいな……。マルスが笑顔でいてくれたなら、私の気持ちも報われるような気がする。
「うん……ありがとう」
それからしばらく、シャロンの隣で泣かせてもらった。彼女が背中をさすってくれたけど、なかなか涙が止まらなくて申し訳無く思った。
しばらくして落ち着いてから、シャロンと二人で王城まで戻らせてもらうことにした。
帰る道すがらふと空を見上げると、空には綺麗な星が浮かんでいた。アスクは、元いた世界とは違ってビルも何もないようなところだから、夜になると星空がよく見える。満天の星空――どの星も美しいけれど、どれだけ手を伸ばしてももう届かないのだろう。
「みんな行っちゃったね」
私がぽつりと呟くと、隣のシャロンが「そうですね」と答えた。
「でも、また会えますよ! だって、召喚師さまとマルスさんはもうお友達じゃないですか!」
「ふふ……うん、そうだね。きっとまた会えるよね」
「はい! だから……泣かないで、召喚師さま」
シャロンがそう言いながら背中をそっと撫でてくれる。まだ涙は零れるけれど、それでも私はもう泣かないと決めた。この先マルスともう一度会えたら笑顔で話せるように。
「またね、マルス」
私は星空にそっと呟いた。またきっと会える日を願って。
「……ス様、マルス様!」
自分の名を呼ぶ声に揺り起こされ、薄っすらとしていた意識が徐々に立ち上がっていく。
数年間行軍を続けてきた賜物で、いつしかぼくや仲間の騎士達は普段朝日が昇る前には自然に目を覚ますようになった。朝になると炊事や軍議、鍛錬がぼく達を待っているのだ。
しかしこうやって起こされるということは、何か良くないこと――例えば強襲や強奪などが起こったのだろう。今までもこうやって起こされることは少なくなかった。
目を開けると、見慣れた赤色の瞳が目に入る。ぼくを起こしていたのは、昨日同じ天幕で眠ったカインだった。彼はもうすっかり身支度が済んでいて、いつもの赤い鎧を身に着けている。やはり敵襲か。ぼくは枕元の剣に手を伸ばし、返事をした。
「カインおはよう、もしかして敵が?」
「あ……! おはようございます、マルス様」
ぼくが体を起こすのを見ると、カインはほっとしたような表情を浮かべて挨拶を返した。何があったのだろうと思って身構えたけれど、彼の口から特に何か用事が続く訳でもない。それにどうしてぼくが起きただけで安心したような顔をされるのか分かず、訳を知りたくて彼に尋ねた。
「どうしたの? そんな顔をして」
「いえ、失礼致しました。実はその、朝日が昇ってもマルス様が起きられないもので――シーダ様が『きっとお疲れだから』と仰ってそのままお休みになっていただいていたのですが、もうそろそろ起きていただかないといけない時間でして」
「えっ」
そんな馬鹿な。彼の言葉を聞いたぼくが慌てて天幕の外を覗くと、確かに眩しい青空が広がっていた。日が昇ってもう結構な時間になっているらしい。普段早く目が覚めることはあれど寝過ごすことは滅多にないので、俄には信じられなかった。
「大丈夫ですか、お身体の調子は」
「う、うん……大丈夫。ちょっと疲れていたのかもしれない。心配かけて申し訳なかったよ、シーダにも謝らなくちゃ」
「いえ、ではお支度を」
「ありがとう」
ぼくがお礼を述べると彼は一礼し、天幕を後にした。
さぁ急がなくちゃ、着替えを取り出そうと立ち上がると同時に違和感を覚えた。足首に何か引っ掛かっている?
「これ、は……」
再び腰を下ろして確認すると、見覚えのないアンクレットがぼくの足首に巻き付いていた。様々な色の紐で編まれていて、ぴかぴか光っている。でもこれはぼくの持ち物ではない。ぼくの物ではない――はずなんだけど――
「…………あれ――」
どうしてだろう、これは自分の物ではないはずなのに、どこか懐かしいと思っているぼくがいた。何でだろう、どこかで目にしたことがあるのか?
どこで……ぼくはこれを、どこで…………
どうしても思い出せない。でも――大切な、失くしてはいけない物のような気がする。色とりどりの紐の煌めきが、懐かしい故郷の海のように揺らめく。これが誰の物なのか、思い出そうとすると頭に靄が掛かってこれ以上進めなくなる。
「……――いや、今は行かなくちゃ」
ぼく達には護らなければいけないものがある。立ち向かわなければいけない戦いがある。この世界に再び平和をもたらすために、ぼくは剣を振るわなければならないのだ。小さく輝くアンクレットを眺めていると、不思議とそんな使命感で満たされる。
きっとこれは大切な人に貰った物なのだろう。どこか遠い世界、もしくはすごく昔にもらった大切なもの……。どうしてそう思うのか分からないけれど、戦いが終わるまでこれを失くしちゃいけないと思った。ぼくはアンクレットをそっと撫でると、立ち上がって身支度を始めた。
「よし」
今日も生き延びて、明日へ命を繋ごう。ぼくはアカネイアの美しい朝空に誓った。
Thank you for your reading!
01~03:2025/05/25発行
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