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落ちていく夜に
「お兄様! 召喚師さま! 今日から飛空城に行けるようになりましたよー!」

 ある日、王城の食堂で朝ご飯を摂っていた私とアルフォンスの元に、シャロンがはしゃぎながら駆けてきた。

 ……飛空城? 少なくとも私にとっては聞き馴染みのない言葉に首を傾げる。しかしアルフォンスにとってもそれは同じだったようで、彼は私より先にシャロンに尋ねた。

「おはようシャロン。飛空城というのは?」
「その名の通り、空飛ぶお城ですよー!」
「へぇ〜。……えっ?」

 そんな夢みたいなことが……。そう思って窓の外に顔を出してみると、確かに空飛ぶ城があった――空中に岩の塊が浮いていて、その上に城が建っている。うん、夢じゃない。いくら魔法みたいなものがあるこの世界でも、流石に地面が浮いているというのは初めてだ。しかしいくらこの世界でもあれは常識外れなものらしい、隣でアルフォンスもぽかんと口を開けるばかりだった。
私とアルフォンスが二人して言葉を失っていると、後ろからアンナ隊長の説明が入ってきた。

「おはよう、二人とも。今日からあの飛空城が特務機関で使えるようになったわよ!」
「使えるって……何があるの?」
「なんでもあるわ! 鍛錬場に食堂、宿屋に温泉だってあるのよ!」

 なんだかそういうレジャー施設みたいだな……。久しぶりに故郷の景色が思い浮かぶ――遊園地とかリゾート施設の光景が……。

「なんでそんないきなり……」
「最近、特務機関のメンバーも増えてきたじゃない? ありがたいことではあるのだけど、王城も兵舎も結構きつくなってきたのよ。それで、思い切って買っちゃおうと思ってね」
「ええ……」

 買えるんだ、あれ……再び窓から顔を出して覗き込んでいると、後ろから急にぐいと腕を引っ張られた。見ると、シャロンが私とアルフォンスの腕を掴んでいる。

「ほらほら! ぼーっと見てないで、今から一緒に行きましょうよ!」
「え⁉ どうやって行くの⁉」
「大丈夫ですよ♪ ついてきてください!」

 私達の疑問などお構いなしに、シャロンはあっという間に私達二人を王城裏の丘へと連れて来てしまった。ここは召喚の儀のときに来る場所だけど、見慣れぬ石碑が立っていることに気付いた。

「さぁお二人とも! 行きますよー!」

 シャロンがその石碑に手を近付けると、一瞬のうちに景色が変わり、気付くとさっきとは別の場所に立っていた。まるでワープの杖を掛けられたかのよう――と言うより、きっと杖なんかよりも強大な転送魔道の類だろう。アスクでは見たことがなかったけど、移動手段として転送魔道をこうして石碑に宿して運用している都市もある、という記述を本で読んだことがある。
 辺りを見回すと、確かにアンナ隊長の言っていたとおりいくつか建物が建っていた。食堂と宿屋と、あとお店みたいな建物もいくつかある。それぞれを繋ぐ道には石畳が敷かれており、周りには噴水やベンチなんかもあってなかなか過ごしやすそうだ。

「へぇ、なかなか雰囲気の良いところだね」
「でしょう! 私、これから探検しようと思ってて――」

 目を輝かせるシャロンだったが、その場にぐうと腹の音が響いた。彼女のお腹に三人の視線が集まる。今朝私とアルフォンスは一緒に朝食を摂ったけれど、そこにシャロンが入ってきたということは恐らく彼女はまだ何も食べていないのだろう。

「えーと、えへへ。まず食堂から行こうと思うのですが、お二人もどうですか?」

 恥ずかしそうに照れ笑いをするシャロン。そんな彼女に連れられて、私達はまず食堂の中から見てみることになった。
 食堂という名前ではあるけど、中にはコックさんのような人は誰もいなかった。ここはお金を払ってご飯を振る舞ってもらう場所ではなく、特務機関の人間がここを利用して自分でご飯を作ったり食べたりする場所なのだそうだ。ご飯屋さんというよりは、学生寮のキッチンで各々が勝手に料理して食べる、みたいなイメージだろう。
 流石に王城の食堂よりは小さいけれど、それでも大人数で食べるなら十分の広さだ。なんならパーティーだって、全員参加じゃない限り開催できそうなくらいだ。
 私とアルフォンスが辺りをきょろきょろと見回していると、シャロンはどこから取り出したのかパンを既に手にしており、私たちを一緒の席に座るように促した。

「ここの裏に畑があるので、皆で野菜なんか育てられればいいですね!」

 向かいの席でパンを頬張っていたシャロンが、にこっと笑う。彼女の言う畑も見てみたけれど意外と広くて、ちゃんと世話をしてやれば何人分かの食事はしっかり賄えるくらいの広さはあったようだ。
 畑仕事……またやったことのない仕事が出てきたなあなんて考えていると、シャロンがあっと声を上げた。

「そうだ! 今度、ここで皆さんと親睦会を開きませんか? 飛空城オープン祝いも兼ねて、皆さんに飛空城の良さを知ってもらうんです!」

 終わったあとはそのまま宿屋に泊まることだってできますから、と彼女は付け足した。確かに今はちょうどエンブラ軍との戦闘も落ち着いているし、新しい英雄も増えてきたところだから、皆で楽しく歓談する時間なんてのも必要かもしれない。

「いいね、それ。今度やろうよ!」
「僕も賛成だ。まだ話したことのない英雄が何人かいるからね」
「やったぁー! じゃあ、私が企画しても良いですか?」
「ああ、シャロンに任せるよ。君もそれでいいよね?」
「うん! 楽しみ!」

 私とアルフォンスがそう答えると、シャロンはまた嬉しそうに顔を輝かせた。誰とでも仲良くなれて愛嬌のある彼女のことだから、きっといい親睦会を開いてくれるに違いない。そんなことを考えながら、目の前で嬉しそうにパンを頬張る彼女の姿を眺めた。
◆ ◆ ◆

 数日後の夕刻。シャロンから渡された招待状に書かれた時間に食堂へ向かうと、そこには既に英雄たちが何人か集まっていた。中に入ると年齢や性別、種族関係なくさまざまな英雄が楽しそうに立ち話をしていて、シャロンの顔の広さに改めて驚かされる。皆心なしか朗らかな表情を浮かべているようだ――皆この親睦会を楽しみにしてくれているんだなあ、と私は既に楽しそうに過ごしている英雄達を眺めた。

「さぁ皆さん、好きな席に座ってください!」

 そうこうしているうちに親睦会の開始時刻になった。バーカウンターの前に現れたシャロンが集まった皆に向けてそう言うと、英雄たちは各々の席へと向かっていった。皆やはり最初は見知っている者同士で固まろうとしているようだ。
 私も適当な席に座ろうと辺りを見回すと、ちょうど一つ空いている場所を見つけた。席の椅子を引いたその時、ふと視線を感じた。

「あ……」

 隣の席に座っていたのは、マルスだった。心臓がどくん、と高鳴る。彼は私に気付くといつもの柔らかな笑みを浮かべてくれた。

「きみもここに座るのかい?」

 マルスにそう声をかけられて、私は一瞬だけ迷う。せっかくの親睦会なのだから、できればまだあまり話したことのない、他の英雄たちと話した方がいいんじゃないか……そんな考えがよぎる。でも、気付けば私は彼の問いに頷いていた。

「うん、いい?」
「もちろん」

 彼は自然にそう言ってくれたけれど、やっぱり緊張してしまう。別にマルスと同じ食卓を囲むのは初めてじゃないけど、こうして並んで座るとなぜか落ち着かない気持ちになる。
 集まった英雄たちが皆着席したのを確認すると、シャロンは珍しく硬い表情で話し始めた。

「こほん……えー、皆さん! 今日はこの親睦会にお集まりいただきありがとうございます! 今日は心ゆくまで皆さんとお話したり、美味しいご飯を召し上がったりしてください!」

 緊張の面持ちを見せながらも皆の前で挨拶をするシャロンの様子を、老若男女さまざまな英雄が見守る。今日はたくさんの英雄が集まってくれた。昔から戦ってくれている者もいれば最近召喚されたばかりの者もいるけれど、皆それぞれ笑みをたたえながらシャロンの挨拶に耳を傾けている。

「それでは皆さん、かんぱーい!」

 彼女の音頭に合わせて皆がかんぱーい、と続く。あちこちからグラスとグラスのぶつかる軽い音が聞こえるが、中身はみんなぶどうジュースだ。大人も子供も楽しく過ごせるように、というシャロンの計らいによるものである。
 やがて周囲からは賑やかな話し声が飛び交い、笑い声も聞こえてきた。シャロンはあちこちの席を回って楽しそうに話し、アルフォンスはまだアスクに来たばかりの英雄たちに話しかけている。

「今日はとても楽しい会になりそうだね」

 隣から聞こえてきたマルスの言葉に、私はこくりと頷いた。

「うん。シャロンが頑張って準備してくれたからね」
「彼女が準備してくれたなら、今夜はきっといい夜になるね」

 そう言って微笑むマルスを見ていると、胸の奥が温かくなる。彼はいつだって、周りのことを思いやっている。私もそんな風になれたらいいのに――そんな思いを誤魔化すように、そっと手元のグラスを握りしめた。

「お二人とも、楽しんでますか?」

 と、色んな席に顔を出していたシャロンが私たちの元へもやってきた。楽しげにグラスを揺らす彼女の頬はほんのり赤く、まるで本当にお酒を飲んでいるかのような雰囲気だ。
「お飲み物も美味しいですけど、お料理も美味しいですよ! 後で来ますから、お二人ともたくさん召し上がってくださいねっ」
 彼女はそう言ってウィンクをしてみせると、またグラス片手に他の席へと向かっていった。

「本当に楽しそうだね」

 マルスがくすくすと笑いながら言う。私もそれに頷いた。

「うん。シャロンは人とおしゃべりするのが大好きだから」
「はは、まるできみが彼女のお姉さんみたいな言い方だね」

 マルスの冗談に、思わず「そんなことないよ」と笑い返す。だけど確かに、彼女とは戦場でもこういった場でも長く共に過ごしてきた。いつの間にか、姉妹のような関係になっていたのかもしれない。

 そうこうしているうちに、食堂の中央にある長机の上に料理が並べられ始めた。焼きたてのパンやスープ、香ばしい肉料理に色鮮やかな野菜の盛り合わせ……どれも美味しそうなものばかりだ。

「食事も並んだことだし、いただこうか」
「うん!」

 私たちは席を立ち、料理を取りに向かった。テーブルの端には皿が積み上がっていて、料理の前にはトングが用意されている。久しぶりのビュッフェスタイルに、私は内心少しワクワクしていた。
 所狭しと並ぶ料理を前にどれにしようかと迷っていると、マルスがスープの入った器を手に話しかけてきた。

「このスープ、美味しそうだよ。一緒にどうかな?」
「あ、ありがとう」

 好きな人に料理を勧めてもらえたのが嬉しくて、もっと話をしたくなった私は会話を引っ張ってみた。

「他に気になるもの、ある?」
「そうだな……あのパンも美味しそうだね」

 彼が指差した先には、バターが染み込んで黄金色に焼き上がったパンがあった。湯気が立ち上り、香ばしい香りが漂ってくる。

「ほんとだ、焼き立てみたいだね」
「うん、一緒に食べようか」

 トングでパンを摘んでマルスのお皿に入れてあげれば、嬉しそうに「ありがとう」と返してくれた。彼は王子様だから、なんなら席から立つべきではない立場のはずなのに、律儀にお礼を言ってくれるのは彼らしいなとつくづく思う。
 席に着くと、早速スープを一口いただいた。口に含んだ瞬間、とうもろこしの優しいまろやかな味わいが広がる。

「美味しい…」
「うん。落ち着く味で、美味しいね」

 マルスと顔を見合わせ、微笑む。こうして同じ食事を囲んでいるだけなのに、なんだか心がほっとする。

「このパンも美味しいよ」

 マルスがそう言って、一口かじったパンを手にしながら微笑む。

「ほんと? 私も食べてみる」

 一口かじると、外はサクッと香ばしく、中はふんわりと柔らかい。バターの風味が口の中に広がり、思わず目を細めた。

「美味しい……とうもろこしも小麦も、裏の畑で育てたものだよね、確か」
「だと思うよ。ぼくも少しだけ手伝ったけど、みんな大きく育ってくれていたからね」

 スープもパンも、故郷にいたときに食べていたものより豊かな味がする気がする。それはきっと、自分たちの手で丹精込めて育てた作物からできたものだからだろう。
 ふと辺りを見回すと、食堂のあちこちで英雄たちが楽しげに会話を交わしながら食事をしていた。

「なんだか、こうしていると……本当に平和な日常みたいだね」

 ふと私が呟くと、マルスも小さく頷いた。

「そうだね。戦いのない、穏やかな時間はとても貴重だと思う。だからこそ、大切にしたい」
「うん。私も、今この時間を大事にしたい」

 そう言って、もう一口パンをかじる。バターの香りが、どこか心を落ち着かせるような気がした。
◆ ◆ ◆

 英雄たちとの親睦会から数日後。湯浴みの後ちょっとお酒が飲みたい気分になり、再び飛空城の食堂へ向かうと、建物の入り口の前でシャロンと鉢合わせた。

「こんばんは! もしかして召喚師さまもお夜食ですか?」
「えっと、お酒を飲もうかなと思って」
「いいですね! 良かったら私も一緒に飲んでいいですか?」
「うん、ぜひ」

 やったぁーと嬉しそうに飛び跳ねる彼女の姿に思わず笑みが溢れる。くすくすと笑う私をよそに、シャロンは中のバーカウンターへと向かっていった。

「ぶどう酒で良いですか?」
「うん」

 私が答えると、彼女はにこにこ笑顔を浮かべながらぶどう酒のボトルを抱えてやってきた。きゅぽん、と小気味の良い音を立てて栓が抜かれる。

「ここのぶどう酒、英雄さんたちにも人気ですよ! 瑞々しくて最高だ、って!」
「ふふ。だって裏で育ててるぶどうなんだもん、そりゃ美味しいよね」

 ボトルを開けてくれた彼女にそのままグラスを近づけると、シャロンはそっとぶどう酒を注いでくれた。自分のグラスにもぶどう酒を注ぎ終わると、彼女はグラスを顔の前に掲げた。

「それではー、シャロンと召喚師さまの友情にかんぱい!」

 かんぱーい、とグラスを軽くぶつけさせる。グラスに口を近付けてぶどう酒を一口頂くと、芳醇なぶどうの香りの中にアルコールの辛さが舌に伝わる。親睦会の時に飲んだぶどうジュースもあれはあれで美味しかったけれど、やっぱり大人ならお酒だ。日本ではなかなか味わえぬ生搾りのワイン――大味ながらも贅沢な味を一通り味わったあと、ゆっくり飲み込んだ。

「はー、美味しいね」
「はい! いっぱい飲めそうですね!」

 シャロンはグラスをテーブルに置いて立ち上がると、お夜食も一緒に食べましょうとチーズやハムをテーブルに広げた。ああ、これはきっといっぱい飲んでしまうだろうな……と思ったものの、にこにこ笑顔のシャロンを前にどうして断ることができようか。私も彼女が持ってきてくれた〝お夜食〟を食べることにした。



 二人で話し込むうち、夜もとっぷりと更けてきた。グラスを重ねるたび、じんわりと身体が温まっていく。シャロンとあれこれ他愛ない話をしながら、私たちはすっかりお酒を楽しんでいた。
 何本目かのボトルを開けた頃、シャロンが不意にその話題を切り出した。

「召喚師さまって、好きな人とかっているんですか?」

 突拍子の無い質問に思わずごほごほと咳き込む。どうして突然――私の困惑をよそに、シャロンが興味津々といった様子で身を乗り出してくる。
 好きな人は、いる、けど……心の準備ができてない私はとりあえず首を横に振った。

「いないよ」
「気になる人もですか?」

 なんだか今日のシャロン、ぐいぐい来るな……。しかし程よく良い心地の中で彼女を拒む気も起こらず、私はぼんやりと口を開いた。

「そうだなあ……マルス、かな――」

 ぽつりと零れた名前に、自分で驚く。しまったと思った時にはもう遅く、彼の名前を聞いたシャロンが目を輝かせた。

「わあ! やっぱりそうなんですね!」
「えっ」 ――やっぱり?
「だって召喚師さま、マルスさんと一緒にいるときなんだか特別楽しそうですもん!」

 うっ……どうしよう、こんなにシャロンが鋭いとは思わなかった。というか私、他の人から見ても分かるくらい浮かれてたんだ……。

「ねぇねぇ、マルスさんのどんなところが好きなんですか?」

 ごまかさなきゃと思うのに、ぶどう酒のせいか妙に頭がふわふわして、素直な気持ちが溢れてきてしまう。しかしまだ恥ずかしさの勝つ私は、ぼんやりとテーブルに視線を落としながら呟いた。

「好き、っていうか……マルスってかっこよくない?」

 正直マルスに「かっこいい」と言うことすらちょっと恥ずかしい。でも、その時は口にしたい気持ちの方が勝ったのだ。

「おおお⁉ 召喚師さま、もしかして恋⁉ 恋ですか⁉」
「いやだから、恋じゃ――」
「でも、召喚師さまにはマルスさんが他の人よりかっこよく見えるんですよね?」
「う……うん」

 ぽつりとこぼした言葉に、シャロンは「きゃー!」と小さく悲鳴を上げた。

「召喚師さま、かわいいです〜! 私応援しちゃいますよっ!」
「ちょ、ちょっと、恥ずかしいから大きな声出さないで……!」

 慌てて制止するも、シャロンは嬉しそうにグラスを揺らしながらニコニコしている。
 酔った勢いで口を滑らせたことを、明日の朝私はきっと後悔するに違いない。そんなことをうっすら思いながら、私は後ろのバーカウンターに水を取りに行った。

「そもそも――マルスには恋人がいるし」

 ワインとは別のグラスに水を注ぐと、一口飲み込んだ。
 私が図書館で繰り返し読んだヒーローズ・サーガの本。そこにはマルスの英雄譚だけではなく、彼を隣で支えた一人の王女のことも物語られていた。
 アカネイア大陸東方の島国、タリス。祖国を追われたマルスが初めに逃げ落ちたのがそのタリスの地であり、のちに彼の恋人となる女性、シーダと出会った地であった。タリスの王女であったシーダはマルスと共に戦い、終戦後も彼の妃としていつまでも二人仲睦まじく過ごしたと語られている。

「まだアスクには来ていないし、そもそも召喚できるかも分からないけど――きっと、私なんかじゃ敵わないくらい素敵な人だと思う」

 残りの水もくっと飲み干すと、いくらか気持ちも落ち着いていくような心地がする。空になったグラスをカウンターに置いてシャロンの元に戻ると、彼女の顔が見たことないくらいむくれていて、思わずぎょっとした。

「な、え、どうしたの」
「確かにそのシーダさんも素敵な人なのかもしれないですけど〜。召喚師さまも負けないくらい素敵な人ですよ!」

 そう言って彼女はテーブルに上半身を預け、その不機嫌そうな顔のまま突っ伏してしまった。

「マルスさんに恋人がいたとしても……召喚師さまの好きっていう気持ちは、大事にしなきゃだめですよぉ……」

 二本の白い腕の中から、もごもごと彼女の声が聞こえる。さっきまで楽しそうにワインを飲んでいたから、彼女も酔ってしまったのだろう。

「大丈夫? シャロン」
「ううん……」

 私の声もむなしく、彼女はぐうぐうと寝息を立て始めてしまった。飛空城には宿屋もあるし、シャロンが起きたら連れて行ったらいいか。私も今日は宿屋で寝ちゃおう。

「今日はお開きにしよっか」

 そう呟いて、二人分のグラスと小皿を下げる。皿洗い場で食器を流していると、さっきのシャロンの言葉が頭に思い浮かんだ。

『マルスさんに恋人がいたとしても……召喚師さまの好きっていう気持ちは、大事にしなきゃだめですよぉ……』

 自分の好きな気持ちを大事にする。てっきり、この気持ちは諦めなくちゃいけないものだと思っていた。彼に気持ちを伝えることはきっとできない。だからって、自分の気持ちを無視して蔑ろにするのも間違っている。彼のことを好きな気持ちを隠そうとしたことを、きっとシャロンは無意識でも見抜いていたのかもしれない。

(やっぱりシャロンは人のことをよく見てるなぁ)

 洗い終わった食器を干し場に置いて、再びシャロンの様子を窺いに行く。相変わらずのんきな顔で眠っている彼女を起こすのは気が引けたが、なんとか起こしてその夜は一緒に宿屋で眠った。
◆ ◆ ◆

 シャロンと秘密の飲み会をした夜からしばらく経ったある日、私は再び召喚の儀式を執り行うため、召喚の石碑の元へと向かっていた。再びエンブラ帝国との戦いが激化し、新たな英雄の力がどうしても必要だったからだ。

 石碑にオーブを撃ち込むと、今日も変わらず石碑に五つの召喚石が浮かび上がる。赤、青、緑、白――今回はその中から赤の石を選んだ。光の弾ける音に導かれるまま、手を伸ばす。やがてまばゆい光が辺りを満たし、やがてそこに一人の女性の姿が現れた。
 長い青髪がふわりと揺れ、彼女の肩にかかる。赤い服に身を包み、優雅な佇まいで微笑むその女性を見た瞬間、私はその美しさに息を呑んだ。彼女は私の姿を認めると、少し照れ臭そうに自己紹介をしてみせた。

「わたしはタリスの王女シーダ。
 あっ、こう見えても
 天馬騎士でもあるのよ。」

 彼女の名を聞いた途端、心臓が揺れるのを感じた。
間違いない。召喚されたのは、紛れもなくあのシーダだった。マルスの婚約者であり、彼の隣に立ち続けた女性――私が何度も本で読んだ、アカネイアの英雄の一人。

「はじめまして、私はこのアスク王国の召喚師の――」

 英雄を召喚するたび、彼らにしてきた自己紹介の言葉を唱える。私の名前、アスク王国についてのこと、私達が置かれている状況、英雄達にお願いしたいこと。私が全てを説明すると、皆態度に違いはあれど基本的にアスクに協力することを了承してくれる。シーダも例外ではなかった。
 アスク王城に二人で向かって、改めてこの世界と召喚のことについて説明をする。一通り説明し終えて二人でひと息ついたところに、誰かの声が聞こえてきた。

「お疲れ様。誰か新しい人が来たのかな――」

 そう言って姿を現したのはマルスだった。彼はいつものように穏やかな表情を浮かべていたが、シーダを見た瞬間、その瞳が大きく見開かれた。その時の彼の瞳の中には、シーダだけがくっきりと映っていた。

「シーダ⁉」
「マルス様!」

 マルスが駆け寄る。次の瞬間、彼は一歩踏み出し、シーダをしっかりと抱き締めた。

「よかった……無事で……」

 彼の声は震えていた。
 マルスがここまで感情を露わにするのを、私は初めて見た。いつも穏やかで誰よりも仲間を気遣う彼が、まるで故郷に帰ったかのように心から安堵しているのが伝わってくる。

「マルス……様……」

 彼女は一瞬驚いたように目を見開いていたが、彼の気持ちを感じ取ったのか、やがて彼の背にそっと手を回し目を潤ませながら微笑んでいた。
 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。それは悲しさや嫉妬ではなく、ただ純粋に彼らの絆の強さを目の当たりにしたからだった。

 ……ああ、この二人には敵わないな。そう思ったのだ。

「マルス様もアスクに召喚されていたのね。ここでもマルス様の力になれるなんて嬉しい……」
「ああ。シーダ、きみがいてくれるならどんな困難にも立ち向かえるよ」

 お互いを想い合う言葉に、私はそっと視線を落とした。
 彼のことを好きだと思う気持ちは変わらない。だけど、二人の姿を見て、決して彼らの絆を引き裂くことをしてはならないと強く思った。
 シャロンは、「好きっていう気持ちは大事にしないといけない」と言ってくれた。でも、それを大事にすることと、無理に彼のことを望むことは違う。私は彼を好きでいることを否定しない。だけど、それ以上を求めるつもりもない。
 そっと微笑んで、私はシーダに声をかける。

「シーダさん……ここでの戦いは過酷だけど……マルスと一緒なら、きっと大丈夫ですね」
「ええ。わたしも、この世界でできることを精一杯頑張るわ」

 彼女はまっすぐ私を見て、優しく微笑んだ。とても美しく、気品に満ちた笑顔だ。
 彼女の言葉を聞いて、私は小さく息をついた。
 ――これでよかったんだ。マルスの隣にいるのは、やっぱり彼女がふさわしい。私の気持ちは、そっと鍵を掛けて胸の中にしまうことにしよう。
二人に見えない陰で、ぎゅっと服の裾を握った。
◆ ◆ ◆

 遥か昔、この世に二人の竜人がいた。名を、アスクとエンブラと言った。
 彼と彼女は枯れた大地に豊かな緑をもたらし、その地で暮らす人々に力を分け与えた。生活を豊かにしてくれた彼らを人々は神と呼び、アスクとエンブラをそれぞれの地で祀った。アスクとエンブラが人間に分け与えた血――この血を引く者たちは、今のアスク王家とエンブラ皇家に受け継がれている。
 アスクとエンブラの民は、初めはそれぞれの地で平和に暮らしていた。しかし、些細なこと――エンブラの民の一部がアスクの地に移住したことをきっかけに、エンブラは人間を信じられなくなり、人々を縛り付けるようになった。自らの地を離れることを禁じ、逆らう者には厳しい罰を与えた。彼女を助けようとしたアスクの言葉も空しく、エンブラは自らの『閉ざす力』で自らの地を閉ざした。そして人々に憑依し呪いを植え付けることによって、その心までも縛り付けることになった。
 かくして、アスクとエンブラはそれぞれ〝神竜アスク〟、〝憑竜エンブラ〟と呼ばれることとなったのである。



 私がシーダを召喚したあの日。あれから間もなくして、憑竜エンブラとの戦いが始まった。 発端は、アスク王国とエンブラ帝国の両国に現れた謎の黒い闇だった。突如現れたそれは、人々のみならず民家や建物までを呑み込み、永遠の闇の中に連れ去った。
 それが憑竜エンブラの仕業だと突き止めた私たち特務機関は、かつての仲間であるエンブラ帝国皇子ザカリアとともに、憑竜による〝アスクの血を引く人間の皆殺し〟を食い止めようとしているところだった。

 憑竜によって生まれた闇の世界。荒れ果てた大地に、永遠の夜闇。たまたま見つけた洞穴で私たちはしばしの休息を取っていた。正直この空間では何が起きるか分からないし、休息に適した環境ではないことも分かっているけど、休み無く戦うことは誰だって不可能だ。
 ここまで戦い続けであまり休息を取れていなかったこともあり、私は出撃してくれている英雄たち一人一人に声を掛けてまわっていた。

「マルス、シーダ、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ」
「ありがとう。私も元気よ」

 私の声に顔を上げる二人と目が合う。二人はそれぞれ違う国の出身だけど、同じ綺麗な青髪と青い瞳を持っている。
 シーダにとっては、アスクに召喚されてから今回が初めての出撃だった。普段初めての出撃は比較的軽いものにするって決めているし、今回もそのつもりだったけど、結果的に負担の重い任務になってしまった。最初はアスクとエンブラの国境に現れた謎の黒い闇の調査をするだけのつもりだったのだが、アスクに帰れないまま戦闘が続き、なりゆきでここまで来てしまったのだ。
「ごめんね、ここまでついてきてもらって。シーダは初めての出撃なのに」
「気にすることないわ。私たちが戦ってたときもこういうことはよくあったもの」
 そう言うとシーダは笑ってみせた。
 シーダの笑い方は、マルスとよく似ていた。彼女もマルスと同じ王族として育てられた人間だ、きっと幼い頃からよく躾けられたのだろう。会話中に笑うときも、ご飯を食べるときも、そして戦うときも彼女の立ち振る舞いは上品で、優美だ。
 しかしそれだけではなく、長い間マルスと一緒に過ごすことによって、きっと色々な部分がお互いに少しずつ似ていったのだと思う。穏やかな雰囲気や言葉遣いが、どことなく似ているのである。その様子は間違いなく、仲睦まじい恋人や夫婦のそれだった。
 長い年月を共に過ごしてきた二人。戦友であり、未来のアカネイアの王と王妃であり――何より、互いに深く信頼し合っていることが、二人から痛いくらい伝わってくる。
「ありがとう、二人とも。少し休んでて、まだ先は長いかもしれないから」
 シーダの笑顔を見るのは好きなはずなのに、胸の奥がひどく冷えるのを感じた。優しくて気高くて、マルスとよく似たその笑顔が小さな棘のように刺さる。
 シーダのことは好きだ。人として女性として、そして一人の兵士として尊敬できる人物であるし、目標にしたい人物の一人だった。だからこそ、……だからこそ彼女がマルスと一緒にいるところを見ると、胸が苦しくなってしまうのだ。
 だから私は、口に出してはいけない想いを、もっと奥へ奥へと押し込めた。二人の絆を、笑顔を決して壊さないように。
◆ ◆ ◆

 静寂の中に、冷たい風が吹き抜ける。洞穴の外から伸びる闇の気配が、じわじわとこちらににじり寄ってくるようだった。風のうねる音が闇から響く。

「ふ……でふふ……ふふ……」
「……今の声――」

 特徴的な笑い声。きっと憑竜エンブラのものだ。
 シーダが立ち上がり、洞穴の外に目を向ける。マルスもすぐに立ち上がって剣に手をかけた。

「皆様……エンブラがついにこちらにやって来たと思われます」

 そう呟いたのは、神竜アスクより遣われし獣人――アシュだった。彼女の顔は険しく、額には汗が滲んでいる。

「僕も聞こえた。……どうやら、エンブラが動き始めたようだ」

 アルフォンスのその言葉に、空気が張り詰める。
 呼ばれている。まるでエンブラが、私たちを更なる闇に誘い込もうとしているかのようだった。

「皆、行こう! 今度こそエンブラを倒して、人々を闇から解放するんだ!」

 アルフォンスの言葉に一同が頷く。私たちはエンブラの潜む闇――洞穴の外へと歩き出した。

 洞穴を抜けると、遠くに人影が見えた。近寄って見てみると、その人影は私たちの仲間である、エンブラ帝国皇子ザカリアだった。彼は力なくその場に佇んでおり、一切の生気が抜けてしまったかのようだ。

「ザカリア!」
「…………」

 アルフォンスが叫ぶ。ザカリアは聞こえているのか聞こえていないのか、虚ろに空を見つめるばかりだ。
 彼は憑竜エンブラの血を引く者――エンブラ帝国皇家の者の一人だ。憑竜エンブラは、その血を分け与えた者の精神を乗っ取り、憑依することができる。エンブラに取り憑かれた者は、普通ならその者の命が果てるまで精神を蝕まれ続けるのだが――神竜アスクのもたらした〝ユグドラシルの鍵〟という名の果実、これを食せば逆に憑竜を食い殺すことができるのだ。エンブラの血を引く人間であるザカリアがユグドラシルの鍵を食し、エンブラをおびき寄せ彼に憑依させた後倒す、というのが私たちの作戦だった。

「気を……つけろ……アルフォンス……」

 力無く立ち尽くしている様子のザカリアの口がわずかに開く。

「我が身は……エンブラに憑かれようとしている……もうまもなく……意識はすべてエンブラに呑み込まれるだろう……」
「ザカリア……」

 彼はそう言うと次第にその表情を歪ませた。すぐに頭を抑え、その場にうずくまる。

「……く……ぐ……ぅっ……!」
「!」

 彼の悲痛な呻き声の後、彼の声色が歪んだ。

「ころせ……ころせ……」

 ザカリアは顔をあげ、こちらを見てうっすらと笑う。その底知れぬ狂気に思わず全身が震えた。

「殺せ……殺せ……アスクを殺せぇっ!」

 ザカリアがそう叫ぶと同時に、彼の体がびくりと痙攣した。彼の瞳は深紅に染まり、ザカリアの意識は完全に消え失せたことが一目で分かった。彼はもはやザカリアではない――人々を闇に閉ざし、その呪いによって数多の人々の命を奪った、憑竜エンブラだ。

「皆、戦闘準備!」

 アンナ隊長が叫ぶ。私たちは武器を手に取り、攻撃陣形を展開した。

「でふふふ……アスクのものは、みんなころすぅ……!」

 今回の戦闘は――言うまでもなく、ザカリアを殺してはいけない。しかし、ユグドラシルの鍵の力はそれを食した者の死の間際に発揮される。つまりザカリアを殺さずにエンブラを倒そうとするなら、彼の生死の狭間を狙って攻撃しなければならない――生かさず殺さず、それがどれほど難しいことか。
 しかし、きっとできるという確信が私にはあった。マルスもシーダも、敵の命を奪わずに無力化させることに長けているからだ。彼らは元の世界での行軍でその技術を遺憾なく発揮し、多くの仲間を自軍に引き入れてきたと聞いている。

「ザカリア……お願い、目を覚まして!」

 ペガサスに乗ったシーダが先陣を切り、ザカリアに剣を斬りつける。彼は後ろに飛びシーダの攻撃を避けると、持っていた魔道書を開き呪文を唱えた。

「ヴラスキャルヴぅ……!」

 刹那、荒れた大地がびしびしと音を立て割れ始め、私たちの周りに氷の柱が突き立った。あれをまともに食らえば、ひとたまりもない。この戦いはやはり空を飛べるシーダに主力を任せた方が良いだろう。
 たとえエンブラが憑依したとしても肉体に大きく変わったことが起こるわけではないので、彼の戦い方が大きく変わったりはしない。一度は仲間として戦ってくれた彼のことをよく熟知していた私たちにとって、今回の作戦を立てること自体はさほど難しいことではなかった。
 マルスの剣が、氷柱の間を縫って駆ける。間一髪で迫る氷の刃を避けながらも、彼の眼差しは決して逸らさない。次の瞬間、彼の声が響く。

「シーダ、右だ!」

 ペガサスの翼が空気を切り裂く。高く舞い上がったシーダは、エンブラの放つ氷の礫をすり抜けその右肩を貫いた。

「うぅ……!」

 彼女の剣をもろに受けても、エンブラは手に持った魔道書を離さない。しかし一瞬よろめいたその隙を、マルスは見逃さなかった。

「そこだ!」

 エンブラが再び呪文を紡ぎ終えるより早く、マルスの剣がエンブラを斬りつける。魔道書を持つエンブラの手がかすかに弾かれ、魔道の軌道が逸れた。

「ぐ、ぅ……!」
「ザカリア! 目を覚ましてくれ、ザカリア!」

 アルフォンスが叫ぶ。
 ユグドラシルの鍵を食した人間は、死ぬ直前に神竜アスクの力を持つ者が祝詞を唱えてやることで死を回避し、エンブラも鍵の力で打ち倒すことができる。アルフォンスの言葉はエンブラを油断させるためのただの演技に過ぎないはずだ。それでも、彼の親友を救いたいという気持ちはこちらにも伝わってきた。
 しかし、ザカリアの瞳には何も映らない。彼の瞳には、血の色だけが宿っていた。

「ころ……す……アスク……ころす……ころすぅ……!」

 彼はそう呟くと再び呪文を詠唱した。次の瞬間、彼の周りに巨大な氷柱が乱立する。

「シーダ! 危ない!」
「きゃあっ!」

 マルスの叫びもむなしく、氷柱は容赦なく彼女に襲いかかる。なんとか持ちこたえようとするも、シーダは空中でバランスを崩し、ついにペガサスから落馬してしまった。このまま地面に落ちてしまえば危ない。絶体絶命の状況だった。
 シーダが落ちる――その瞬間、マルスが駆け出した。
 まるで風のような速さだった。彼は足場を蹴って宙へ飛び上がると、落下するシーダを抱きかかえたのだ。

「大丈夫か、シーダ!」
「ありがとう、マルス様!」

 まるで息を合わせた舞のようだった。美しく、完璧で、迷いがない。
 ふたりが背中を預け合い、次の瞬間には連携して再びエンブラに向かって飛びかかっていた。
 ペガサスから降り地上で戦うこととなったシーダ。彼女の剣がエンブラを囲う氷の防壁を貫く。同時にマルスが地を走り、足元から跳ね上がった氷の柱を剣で切り払う。彼らの呼吸は、ぴったりと重なっていた。

「……すごい」

 ああ、これが長年一緒にいた者同士の絆なのか。
 他の誰よりも息が合っている、そう感じた。二人の間にある強い信頼が、二人の動きの美しさに拍車をかけている。
 私は、私とマルスの間に築いていたと思っていた絆というのは、マルスの優しさに支えられているものだということを初めて知った。誰よりも仲間を大事にするマルスだからこそ、きっと誰とだってうまく戦えるのだろう。結局、私はマルスに守られて戦っていたのだ。

「はぁあっ!」

 一気にエンブラに接近したマルスがその脚を切りつける。一気にバランスを崩したエンブラが呻きながら地面に倒れるのを確認すると、二人は攻撃をやめた。

「ぐぅ……っ……」

 エンブラの右肩と脚から血がどくどくと流れる。エンブラは地に倒れたままうわ言のようにころす、ころすと口にしているが、再び立ち上がることもできないだろう。
 きっとこのまま血を流し続ければザカリアの命は死に近づいていく。その死の間際にアシュに祝詞を唱えてもらえれば、ザカリアの身体は全て癒やされ、彼に取り憑いたエンブラは光の力で倒される。そうすれば、私たちの勝利だ。
 マルスとシーダが並んで立つ。二人は互いに一言も交わさずとも、視線だけで全てを理解しているようだった。背を預け、言葉無くして呼吸を合わせるその姿が、まるでひとつの剣のようだった。
 私はその光景を、ただ立ち尽くして見つめていた。
 私とマルスの間にあるものも、きっと絆と呼べるものだった。共に剣を振るい、数え切れない修羅場を越えてきた。それでも、彼が誰よりも信頼を寄せるのは、私ではなくシーダなのだ。
 彼らの間にあるものは、私の知らない時間で、思い出で、傷跡でできている。私はただその輪の外にいて、マルスが差し伸べてくれる優しさに甘えているだけだった。

(私の隣に立ってくれていたのは、彼の優しさだったんだ)

 彼はどこまでも平等で、誰にでも希望を与えてくれる人で……そして、私の〝特別〟ではないのだ。

 ザカリアの呻き声も、アシュの祈りの声も、どこか遠くに感じた。私はただ、マルスとシーダの背中を見つめることしかできなかった。