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燃ゆる一等星に導かれ
  • マルス×シーダ前提です。最終的に夢主が失恋します。
  • シャロンとの友情夢要素も含まれます。
  • 原作のシナリオと一部異なる展開があります。また、召喚・送還の細かい設定を捏造しています。
  • 全編ネームレスです。

 彼の後ろ姿は、どこか夢のようだった。戦場の混乱の中でも、一瞬で目を奪われた。
 青い髪に穏やかな瞳。けれどその剣筋は鋭く、敵の攻撃をことごとく弾いていた。

「きみ、大丈夫かい?」

 戦場で交わした言葉は、それだけだった。それでも――私はきっと、あの日のことをずっと忘れられない。






 それは、本当に突然のことだった。
 一年前のある日。いつも通り職場のデスクに向かってモニターとにらめっこをしていると、不意に眩い光とともに視界がひっくり返った。まるでいきなり遊園地のアトラクションにでも乗せられたような感覚。突然の強い光に思わず目を閉じた――そしてなんと次の瞬間には、私はオフィスとは似ても似つかぬ草原のようなところに立っていたのだ。

「え……え⁉」

 あまりにも現実味のない出来事に驚いて辺りを見回すと、私が立っているところは小高い丘になっているようで、丘の下にはぽつぽつと家があるのが見えた。家――と言っても日本の住宅ではなく、恐らく石造りのヨーロッパっぽい家。周りに高い建物がほとんど無いせいで空がやたらと広く感じる。きょろきょろと見渡した視界の端に巨大な鳥が見えた。

(あれは……鳥?)

 いや、あれは鳥ではない。よく見ると足が四本あり胴体が鳥よりもがっしりしていて、馬に翼が生えた生き物、ペガサスだ。……ペガサス⁉ どうしてそんなものがどうしてここに――

「やったー! 本当に成功しましたよ、お兄様!」

 自分以外の人の声が聞こえた。背中から聞こえた人の声にはっとして後ろを振り向いたとき、一瞬私はぎょっとした。私の後ろに、鮮やかな青髪と金髪の男女が立っていたのだ。彼らは白い服に金の鎧のようなものを纏っていて、暗い色のスーツを着ている私の方が場違いな気さえしてくる。およそ日本人ではなさそうな彼らを前に、私はただただ困惑するだけだった。ここは一体どこで、彼らは一体何者なのか。

「はじめまして。君が召喚師だね?」
「えっ?」

 好青年そうな青髪の男性に全く意味の分からない質問をされ、ますます頭が混乱する。
 『召喚師』、まるでゲームとかアニメに出てくるような単語の響きにどう返せばいいか分からない。そんな私をよそに、次は金髪の女性が目を輝かせながら私に近付いてきた。

「召喚師さま、あなたのお名前は何ですか⁉」
「ちょっと待って、召喚師って私のことですか?」
「えっ、そのはずですけど……もしかして間違えて違う人を召喚しちゃいましたか⁉」

 みるみるうちに顔を青ざめさせる彼女。やはりこの世界では私は『召喚師』と呼ばれるべき存在……なのだろう、多分。あまりにも現実味が無い話だから実感は湧かないけど……そもそも召喚師って何?
 私が首を傾げていると、男性がごそごそと布のようなものを取り出した。

「僕はアスク王国の王子アルフォンス。喚び出したところすみません、これを着てもらえますか」

 と、アルフォンスと名乗った彼が両手でぶらんと持ち上げたそれは白いローブのようなものだった。ところどころに金色の刺繡が施されていて、二人が着ている服と雰囲気は似ている気がする。特に変哲の無さそうな服にはぁと言われるがままに袖を通すと、彼は白い拳銃のような形をした謎の道具らしきものを差し出した。
「次はこれを持って、あの石碑に向けてここを引いてください」
 彼が「ここ」と指した部分は形状こそ銃の引き金そのものだが、つやつやと白っぽい。なんだかおもちゃみたいな見た目をしたそれは、私が知ってる銃とはちょっと違う。ここまで来てまさか実弾が発砲されるわけではないだろうと踏んだ私は、彼から銃を受け取った。

(!――)

 自らの右手でそれを握った瞬間、体の中がどっと熱くなるような不思議な感覚があった。まるで私のために作られたのかと錯覚するくらい、その銃は私の手に馴染んだ。そんな感覚に導かれるようにゆっくりと傍の石碑に向かって銃口を向けると、私は人差し指に力を込めて一気に引き金を引いた。ガシャ、という音とともに虹色の光が銃口から溢れ出す。

「すごい! 本当に〝伝説〟そのままです!」

 石碑に光が集まると、ぶしゅんと白い煙を吐き出した後石碑は光の柱を立ち昇らせた。光の洪水が止んだ後そっと目を開けると、そこには一人の男性が立っていた。今まで側にいた二人の男女とは違う、別の新しい人だ。彼もまた青髪で、胸と肩に黒色の鎧を当てている。
 彼は私達の姿を認めると、穏やかに微笑んだ。

「ぼくはアリティアの王子マルス。
ぼくも、平和を望む君たちと共にいたい。
これからよろしくね。」
「すごーい‼ 本当に英雄を召喚しちゃいましたよ! マルスさん、はじめまして!」

 金髪の女性はそう言うとキャッキャとはしゃぎながらマルスと名乗った彼に話し掛け始めた。
 ……何だ、今のは。いきなり知らない所にワープしてきたと思ったら、今度は逆に知らない人がワープしてきた。さっきから夢みたいなことがずっと起きている。
 ――そうだ、夢! 私は漫画みたいに頬をつねってみたけど、ヒリヒリと痛むだけだった。

「これって……夢じゃないの……」

 圧倒的な現実に呆気に取られた私がそう呟くと、二人がはっと私の方を振り向く。程なくして、先ほどアルフォンスと名乗った青髪の男性と、金髪の女性――シャロンが改めて私とマルスに状況の説明を始めてくれた。アルフォンスは私がワープしてきたこの国の王子であるらしく、王城へ戻る道すがら話してくれることになった。
 結論から言うと、私はこの世界の『召喚師』なるものらしい。召喚師は異界の英雄達を喚び出し戦力として使役することができて、なんでも伝説上では世界を救う存在なのだという。その『召喚師』――私をこの世界に喚び出すために、先ほどの二人は古の儀式を執り行っていたらしい。

「突然喚び出したところ申し訳ないけど、君に力になってほしいんだ」
「力っていうのは……」
「僕達の国――我々アスク王国に、別の国の軍が攻めてきているんだよ」

 エンブラ帝国。アスク王国の近隣に位置するその国は、同じく異界の英雄を召喚することによってアスク王国に侵攻してきているらしい。英雄の数は少なくなく、また『英雄』と名を冠するだけあって並の兵士ではなかなか太刀打ちができない――これに対抗するために私が喚び出された、というわけだ。
「急な話で申し訳ないけれど、しばらくの間君の力を貸してほしいんだ」
 そう言うとアルフォンスは歩いていたところを立ち止まって、私の目の前で頭を下げた。彼の切実な表情から真摯な思いが痛いほど伝わってくる。きっと事態は切迫しているのだろう。だけど……

「そんな……そんな、急に言われても……」

 〝急に言われても困る〟。それが私の今の率直な感想だった。
 ビルがない代わりにペガサスが飛んでいて、召喚なんて魔法みたいなことができる世界。そんなまさに異世界と呼ぶべき空間に急に飛ばされてきた上、『召喚師』として力を貸してほしいなんて言われても一体どうすればいいのか分からない。この世界は夢ではないとやっと理解し始めたけれど、それでもまだ完全に理解したわけではない。
 じっと頭を下げ続けるアルフォンスを前に私が返事に詰まっていると、隣にいたシャロンからキャーと悲鳴が上がった。

「あそこ! 火が上がってます‼」

 指差された方、丘の下を見ると確かに村から赤い火が上がっているのが見えた。

「またか……! エンブラ軍だ! 急ごう!」

 アルフォンスの号令で皆が火元に向かって駆け出していく。一つも迷わず火元に急ぐ皆に驚きつつ、私も慌ててその後に続いた。
 丘を下りた先の村にたどり着くと、既にそこは火の海だった。逃げ惑う人々、それを追い詰める兵士達。頬にちりちりと焦がされるような熱を感じる。

「――」

 言葉を失った。現実のものとは思えない光景に、目の前が遠く感じる。煙が辺りに立ち込め、火の粉が視界をちらつかせる。何かが倒れる音、割れるガラスの音、恐怖に泣き叫ぶ子どもの声――全部、本当に目の前で起きている。
 私が燃え盛る家々を前に呆然としていると、兵士達の先頭に大きな剣を持った男を見つけた。

「エンブラ軍だ……!」

 アルフォンスの視線の先にいるのは、黒々とした鎧を纏う男。彼は兵士を従えながらゆっくりと村の中を歩き回っていた。そしてある一角で足を止めると、逃げ遅れてしまった村人の男の子に向かって剣を向けた。

「いやだ……たすけて……!」

 男の子の悲鳴が聞こえる。壁を背にしてしまった彼は必死に助けを求めているが、エンブラ兵の男はじりじりと村人と距離を詰めていた。このままでは彼はきっとあのエンブラ兵の男の餌食になる。

(行かなきゃ……行かないと……!)

 そう思っているのに、体が石のように重い。震える指先、こわばった足。焦るだけで何もできなかった。
 その時だった。突然、近くの建物の壁が焼けて崩れてきたのだ。ばきばきと音を立てながら、黒くなった木材がこちらに向かってくる。

「――っ!」
「召喚師様!」

 咄嗟に身を引く間もなく、私は地面に投げ出された。燃え盛る炎の海と瓦礫の山に塞がれ、元いた場所に戻れそうにない。見回すと、近くにさっきの男の子がいた。彼の瞳は恐怖に震え、涙がいっぱいに溜まっている。

(助けなきゃ――!)

 駆け寄ろうとした瞬間、立ちはだかる黒鎧の男が剣を振り上げる。

「やめて……!」

 考えるより先に足が動いていた。私は叫びながら男の元へ向かって駆け出すと、彼の剣が振り下ろされないように、彼の前に両手を広げて立ち塞がった。

「ああ⁈ なんだお前は」

 男は私を見るなり怪訝そうな顔をし、ドスを利かせた。威圧感に気圧され思わず足元がぐらりと揺れるが、今更引っ込みのつかなくなった私は彼の顔をキッと睨み返すと、大きく息を吸う。

「こ……この人達は関係ないでしょ! 今すぐやめて!」

 私がそう叫ぶと男は一瞬ぽかんとした後、すぐに大笑いし始めた。

「何を言うかと思ったら……これは戦争だぞ? そんな甘っちょろいこと言ってんじゃねぇっ――!」

 『戦争』。私がその言葉の意味を深く考えるよりも先に大剣が空気を切り裂く音がした。ぶん、という音に死を直感し強く瞼を閉じるがいつまで経っても衝撃は訪れず――そっと目を開けると、目の前には青色のマント。輝く火の粉を纏った彼は――。

「きみ、大丈夫かい!」
「あ――」

 そこには、先ほど石碑から現れた青年――マルスが細身の剣で男の大剣を凌いでいた。二人の剣に昏い炎の色が光る。

「チッ……どけよガキが‼」

 そう叫んで凄む男に、マルスは一つも屈する様子は無かった。それどころかマルスもその男と同じくらいの迫力を出している。両者はどちらも譲らず、ギリギリと刃の擦れる音が間近に聞こえた。

「この人達を傷つけようとするなら、ぼくはここをどく訳にはいかない!」
「っは……英雄気取りのガキめ――そんなに死にたきゃ今すぐあの世に送ってやるよ!」

 男がそう叫ぶと大剣が一層強く光り輝いた。マルスはそれを剣で受けると、そのまま後ろに飛び退く。そして間合いを取ると細身の剣を前に構えた。

「今だ!」

 声とともに、男の後ろからアルフォンスとシャロンが武器を構えて振り下ろす。男は振り返ってそれを受けようとはしたものの、背後からの不意打ちに防ぎきることはできず――二人の攻撃を受け、男は膝から崩れた。

「うぐっ……!」

 呻きながら地に伏せる男の喉元に、マルスの剣先が突き立てられる。

「村人たちに罪はない! 今すぐこの村を解放するんだ!」
「チッ……! クソがぁ……っ‼」

 男は敵わないと思ったのか、捨て台詞を吐きながらも村を焼いていた兵達に撤収を命令し、さっさと引き揚げていった。マルスは撤収する者たちをただ見守るだけで、一人も傷付けたりはしなかった。

「きみ、立てそうかな」
「あ――」

 マルスに手を差し伸べられて初めて、自分の腰が抜けていたことに気付いた。立ち上がろうとしても、情けないことにどうしても力が入らなくて立ち上がることができないのだ。私は彼の右手を借りてようやく立ち上がることができた。ぐっと私の手を握った彼の手は、戦闘のせいなのか火事のせいなのかは分からないけど――とても熱かった。
◆ ◆ ◆

 その後私達四人と残った村人達で消火活動にあたった。何軒か家は焼けてしまったものの、村人達はなんとか全員命を落とさずに済んだと村長から報告があった。あの男の子も無事だったと分かった私は、ほっと胸を撫で下ろした。

「ありがとうございます、アルフォンス王子。あなた様はこの村の救世主です」

 私はアルフォンスにお礼をする村長の姿を見ながら、先ほどエンブラ兵の男の言葉を思い返していた。彼の刃が目の前に迫る感覚――

『これは戦争だぞ? そんな甘っちょろいこと言ってんじゃねぇっ――!』

 戦争という言葉、そしてその後に訪れた死の直感。背中の裏に張り付くような、冷たい感触が忘れられない。
 戦争って、こんなにも死と身近なんだ。死ぬのは怖いはずなのに――彼らは戦争と身近な生活をしているにもかかわらず、こんなにも強い。きっとマルスは今までの人生で何度も死と向き合ってきたのだろう。いかに自分の生活が『甘っちょろい』ものだったのかを考えさせられる。私はこの世界では伝説の召喚師らしいけど、戦いに加わったところで本当に役に立てるのだろうか。

「召喚師さまー! 大丈夫ですか⁉」

 アルフォンスと村長の話が終わると、シャロンが私の元に駆け寄ってきた。

「うん、マルスのおかげで大丈夫だった……ありがとう、マルス」
「ううん。きみが無事で良かったよ」

 そう言うと彼は小さく微笑んだ。鍔迫り合いをしていた時の迫力ある表情とは打って変わって、彼の長いまつ毛が伏せる様子が柔らかい印象を生んでいる。さっき王子と名乗っていた気がするけど、これが本当の王子様スマイルなのかもしれない……。
 アルフォンスが私達の前に戻ると、改めて私の前で頭を下げた。

「召喚師様。やっぱり、我々アスク王国には君の力が必要だ――君にも君の生活があることは分かる。君にとって大切なものがあるだろうことも分かる。でも、どうしても君の力が必要なんだ」

 ――『大切なもの』。彼の言葉に促され今までの自分の生活を思い起こす。
 私は今まで、ずっと同じ一日を何度も何度も繰り返すだけの生活を過ごしていた。朝起きて、会社に行く。ご飯を食べる。シャワーを浴びて寝る。満足だとか不満だとかは考えたことがなかった。ただ、私にはそれしか道が無いと思っていた。
 アルフォンスの言葉が胸の奥で再び反響する。『大切なもの』……自分にとって、それは何だろう
――。自分の人生に新しい意味を見つけること、その道を歩むこと。その先にある、見たことのない景色を見てみたい。もしかしたら、それが新たな『大切なもの』になるのかもしれない。
 ……うん、それに、自分がこうやって伝説の存在だって持ち上げられることも今後無いだろうし。私は結論を出すと、ゆっくり口を開いた。

「うん。上手くできるか分からないけど、やってみたい」

 そう答えると、二人ともパッと顔を輝かせた。シャロンは私の言葉を聞くとピョンピョンと飛び跳ねて喜びをあらわにした。

「わぁー‼ ありがとうございます‼ これで我がアスク軍も百人力ですね!」
「ありがとう! 本当に助かるよ」
「あはは……」

 こんなにも喜ばれると、なんだか照れくさい。私が頭を搔いて誤魔化していると、マルスと目が合った。

「これからよろしくね」

 彼はそう言うと、握手を求めてきた。私はその手を握り返すと、彼に笑顔を向けた。

「うん! よろしく」
◆ ◆ ◆

 その後王城に戻り、より詳しい話をアルフォンスから聞いた。
 私があの時アルフォンスから受け取った拳銃のようなモノは、アスクに伝わる神器〝ブレイザブリク〟と言い、天より至る伝説の召喚師――つまり、私にしか扱えないものらしい。
 アスクの召喚師は神銃ブレイザブリクを振るうことによって、異界から英雄を召喚し、彼らを戦わせることができる。マルスと名乗った彼も英雄の一人で、彼が召喚された異界の他にも数多くの異界があり、それぞれに英雄達の伝説ヒーローズ・サーガが伝わっている。

「この王城の図書室にもヒーローズ・サーガについて著した本があるから、あとで読んでみるといいよ」

 そう言われて開いてみた本の中では、マルスは〝紋章の異界〟の英雄王として物語られていた。なんでも彼はアカネイア大陸に現れた暗黒竜を二度も打ち倒し、世界に平和をもたらしたのだという。
ペガサスの他にも竜なんて生き物が存在して、しかも大陸全体を脅かす存在だというのにも驚いたが、あの穏やかそうな彼がまさに英雄譚の主人公のような人物だったとは全く想像すらしていなかった。

 今、アスク王国はエンブラ帝国と戦争をしている。アスクと同じように異界の英雄を召喚するエンブラに対抗するために英雄を喚び出しているが、元々英雄達はこの世界の者ではないため、いつかは英雄達を元の世界に戻さなければならない。〝召喚〟と対になる、英雄達を元の世界に送り返す行為――〝送還〟は、同じく神銃ブレイザブリクの力によって行使される。この世界に召喚されてきた英雄は言わば〝借りてきた〟だけの状態である。この世界と異界の時空の均衡を保つため、送還された英雄達は肉体と精神、そして記憶を巻き戻された状態で元の世界に戻るということらしい。

「だから、英雄達は元の世界に送還されると肉体が若返って、このアスクでの出来事は忘れてしまうというわけなんだ」
「そうか……」

 隣でアルフォンスの話を聞いていたマルスが溜め息混じりの相槌を打つ。彼はこの世界での戦いの様子を聞き、たとえ違う世界だとしても戦禍に苦しむ人々を放っておくことはできない、とアスク軍に参加するのを快諾したところだった。

「一緒に戦った皆のことを覚えられないまま向こうに戻るのは、寂しいね」

 マルスはそう言って笑ったけれど、少しだけ眉根を下げた彼の寂しげな笑顔がなんだか印象的だった。



 それからアスク軍での鍛錬が始まった。
 私と英雄達が所属するのは、正確に言うと、軍の中にある特務機関ヴァイス・ブレイヴという名前の組織らしい。アルフォンスに連れられて案内されたのは、隊長を務めるアンナという赤髪の女性だった。髪の毛をサイドで一つ結びにしているのが特徴的な、綺麗なお姉さんというのが第一印象だった。

「私は特務機関隊長のアンナよ。あなたのことはアルフォンスとシャロンから聞いているわ。よろしく頼むわね!」

 挨拶とともに差し出された右手を握ると、彼女の手は意外とごつごつしていることに気付いた。あとで鍛錬場で彼女が自分の体くらいある斧を振り回しているのを見て、彼女が隊長を務めるのも納得だと思った。
 私が召喚師として戦っていくにあたってまず鍛錬が必要だ、とアルフォンスは言った。召喚師として、異界から英雄を召喚することが私の一番の仕事だ。しかし英雄の適性や身体能力を理解したり、またこれからの作戦や戦略を練っていく上でも、まずは自分自身が武器を扱い戦場での心得を知る必要があるとのことだった。

「剣って……お、重い……!」

 元の世界ではごく普通の一般人だった私だ、初めてのことに戸惑うことばかりだった。まず剣を持つことさえままならないのだ。剣を手にして初めてマルスやアルフォンスの凄さがよく分かるようになった。

「ふふ、そうね。最初はみんなそんな感じよ」

 鍛錬に初めて参加したその日は、練習用の木剣を振り下ろすのがやっとだった。私は戦闘に積極的に参加する役回りではないものの、それにしてももっと体力も筋力があった方が良いに違いない。そんなことを思いながら必死に剣を振っていたらいつの間にか手がぼろぼろになっていたし、次の日はひどい筋肉痛でろくに動くことができなかった。



 私がアンナ隊長との鍛錬を始めてから数か月が経った。
 最初は木剣を持つ事すらおぼつか無かった私も、ようやく真剣を手に持ってそれっぽい動きができるようになってきた。槍や斧も持ってみたけど、自分には一番剣が手に馴染んだ。
 鍛錬がお休みの日は座学に励んだ。アスク王国とエンブラ帝国の歴史、武具の基礎知識、それぞれの戦場の地形に対応する戦略などなど。
 魔道の練習をするのも座学の時間だけれど、私はまだ炎も風も起こせたことが無い。こればっかりは天性の才能の部分もあるらしいけど、魔法の類がない世界出身の人間にも才能があるなんてことがあるのだろうか。
 それにどうも私が元居た世界とこの世界の常識にギャップがあるようなので、私は空いた時間に図書館の本を読み漁ったりもしていた。

「何を読んでいるんだい?」
「わっ」

 ある日私が図書館で本にかじりついていると、後ろからマルスに話し掛けられた。彼もまた何冊か本を抱えている。

「ヒーローズ・サーガだよ」
「あ……ぼくがいた世界の巻だね」

 マルスが私の開いていた本を覗き込む。物語は終盤の方に差し掛かっていて、マルスが再び復活した暗黒竜メディウスにちょうどとどめを刺す場面を読んでいたところだった。

「……なんだか本当に物語の出来事みたいだね」
「えっ? マルスがメディウスにとどめを刺したんじゃないの?」
「ううん。これはきっと違う世界のぼくの話だね」

 マルスは本の頁をそっと撫でて言った。古い紙の匂いがふわっと舞う。
 英雄を喚び出せる異界はいくつか存在する。しかもそれぞれに無数の時間軸と運命があって、まだ幼い頃のマルスや、進撃を始めた頃のマルス、戦いが全て終わった後のマルスなど、私の召喚の力では色んな姿の彼を喚び出すことができるらしい。

「この本を読むたび不思議な気分になるよ。違う世界のぼくは、あのアカネイアを平和に導いたんだ」

 マルスは本の挿絵――別の世界のマルスが暗黒竜を再び封印する様子をじっと見ていた。今私の横にいるマルスは、きっと戦いの最中にこの世界へと喚び出されたのだろう。
 彼の顔を見ているとあの日のことを思い出す。初めてこの世界に喚び出されて、マルスが私を守ってくれたあの時。何人なんぴとたりとも傷付けさせはしない、という彼の気持ちが後ろ姿から伝わってくるようで、その場を絶えず舞う火の粉のように私の心をひりつかせた。
 他人のため――それも会って間もない私や村人達のために剣を振るうことができる彼なら、元の世界でもきっと自分の大義を成し遂げることができる。心からそう思った。

「きっとマルスもできるよ」
「そうだね……ぼくも頑張らないと」

 彼は机の脇に置いていた本を抱え直すと、ぼくも本を読むからと言ってその場を去っていった。
 本の中のマルスは、神剣で暗黒竜メディウスを封印した後、アカネイア大陸を統べる『英雄王』としてその名を後世に残していた。マルスが君主となった後のアカネイアには、永年の平和が訪れたらしい。

 特務機関に入って鍛錬を始めるようになってから、私は密かに彼を目標にして毎日励んでいた。もちろん一朝一夕で彼の実力に近付けるとは思わない。彼はそれこそ幼い頃から鍛錬に励み、踏んできた場数も私と段違いだ。だけど、心の中で目標にするくらいならきっと許される。――とにかく、目下の目標は〝マルスに守られない自分になること〟だった。

「――よし! 今日はここまでにしましょうか」

 ぱん、とアンナ隊長が手を叩いた。
 日々の鍛錬の甲斐あってか、一年も経つ頃にはかなり動けるようになっていた。……と言うよりは、この一年の間にエンブラ軍との交戦が何回かあり、実戦で覚えることの方が多かった。召喚師である私は基本的に後方で皆を支える役割であるものの、まだ特務機関は戦力に乏しく、私が敵の応戦をすることも少なくなかった。

「かなり動きが良くなってきたわね! それに体力も付いてきてるみたいだし」
「ありがとうございます!」

 以前の私は運動なんてほとんどしていなかったので、きっと普通の人よりも体力は無い方だっただろうな。そんな私でもこうして剣を振ることができるくらいには筋力も体力も付いてきたので、我ながら頑張ったなあと思う。

 しかし前々から練習していた魔道については今でもからきしだった。魔道士の英雄には「才能はあるはずだよ」とは言われたけど、やっぱり現代日本で生まれた私には無理なんじゃないだろうか……。それでも、魔道を使えれば戦術の幅は広がるよなあと練習自体は毎日続けていた。それに、やっぱりせっかく魔法みたいなものがある世界に来たんだから、一度くらいは使ってみたいな……なんてことを思いながら、その日も魔道書を読み込んだ。
◆ ◆ ◆

 そんなある日、アスク王国の東方領にて突然敵軍侵攻の報せが入ってきた。初めはエンブラ軍のしわざだと思っていたのだが、後に〝炎の国〟ムスペルによる侵攻だということが分かった。そして、それにエンブラ帝国が乗っかる形で一緒に攻め込んでいたのだ。
 ムスペル軍の攻撃は激しく、特に国王スルトが直々に率いる部隊の攻撃は尋常ではなかった。彼は突然アスクに攻め入り、罪のない民たちの命までも奪っていった。私たちアスクは、同じくムスペルに侵略され滅ぼされてしまった〝氷の国〟ニフルの王族たちと組み、この暴虐の王を倒すことを決意したのであった。

「これからいよいよ敵の本拠地、炎の儀の神殿への潜入――皆、気を引き締めて行くわよ!」

 アンナ隊長の一言で全体の雰囲気が一気に引き締まるのを感じる。ムスペル軍との戦いを幾度も重ねてきた私たち特務機関は、いよいよ敵の本拠地に乗り込み、諸悪の根源スルトを討とうかというところであった。
 古文書に載っていた隠し扉から、ゆっくりと神殿に忍び込んでいく。炎の国と称されるだけあってムスペルに入ったときから暑いとは思っていたけど、神殿に潜入してからは外気に晒された顔がひりひりと痛く感じるくらい暑い。そう感じているのは私だけではないらしく、皆ぽたぽたと汗を垂らしながら長い廊下を歩いていた。

「……暑いね。大丈夫かい?」

 私の隣を歩いていたマルスが話しかけてきた。私が腕で汗を拭ったのを見て心配してくれたようだ。

「うん。ありがとう」

 お礼と一緒に笑ってみせると、彼も小さく微笑んでくれた。
 私がマルスを召喚してからもう一年以上経つ。この一年の間に、私は何人か英雄を召喚した。王族、貴族、平民――本当に色々な立場の英雄を召喚したけれど、マルスは皆の中で一番笑顔がきれいな印象があった。丸い瞳が上品に細くなる様子は、きっと幼い頃に王子としてよく育てられたのだろうと想像させる。当たり前だけど、今まで王族の人と喋ったことのなかった私にとって、ある種眩しいとさえ感じるような笑顔だった。彼との会話が終わった私は、腰の水筒を手に取り喉を潤した。



 炎の儀の神殿の最奥部――そこに彼はいた。大広間の中心で、ムスペルの王スルトが笑う。彼が破顔すると、その浅黒い肌から白い歯が覗いた。

「ぐははははははっ! また会ったな、弱き者どもよ!」

 高笑いとともに、彼の赤黒い鎧がぎらりと光った。大きな鎧を身に纏い体の丈ほどある斧を持った彼の姿は、まさしく炎そのものと呼ぶに相応しかった。

「スルト……お前は多くの国を侵略し、多くの善良な人々の命を奪った。アスク王国の第一王子として……ヴァイス・ブレイヴの一員として……ここにお前を討つ!」

 スルトの目の前に立ったアルフォンスの口上に、スルトはまたぐははと笑みを洩らす。

「面白い、ならばこの王に挑んでみよ! 王は一人――我が教えを、貴様らの柔い肌に焼き刻んでくれるわ!」

 スルトが腕を振り上げると、ごおっと炎の柱が立ち昇り、辺り一帯が炎の海に包まれる。それまでとは比べ物にならない熱さに、私は思わず身震いした。

「殺し合いだぁ! ぐはははははははぁっ‼」

 地の底で轟くような笑い声とともに、まずは一撃彼の大きな斧が振り下ろされた。そのままくうを割いて落ちたそれは、ずん――と枯れた神殿の地面を割った。斧の先から走る地割れの痕に、思わず足がすくむ思いだ――だが、そんな弱腰な精神を改めるかのようにアンナ隊長の声が響いた。

「みんな、戦闘準備よ‼」

 彼女の号令で皆武器を構え、部隊が一斉に攻撃陣形を展開する。ここに、アスク・ニフルの連合軍と、ムスペルの王スルトの最後の戦いが幕を開けた。
 作戦を開始した皆の様子を、私は後ろから指揮を執るべく眺めていた。スルトの一撃は重い。彼の斧に僅かでも掠ればきっとただでは済まないだろう。しかし、これまでの私たちの進軍によって神殿の中の敵を既にかなり減らせている――ムスペル陣営はスルトと僅かな衛兵のみだったのに対し、こちらは十分な戦力を保ったまま戦闘に入ることができた。
――きっと勝てる! そう自分に言い聞かせ、私は皆への指示を始めた。



 神殿の空気は、まるで全てを焼き尽くそうとするかのように熱を帯びていた。柱に刻まれた古の紋様が赤々と燃え盛る炎に照らされ、影を伸ばして揺らめく。
 スルトとの戦いは、熾烈さを極めた。
 私たちはこの戦いに全てを懸けていた。スルトを倒さなければ、私達が平和を手に入れることはできない。激しい戦闘の中、剣戟が飛び交い、魔道の光が閃く。仲間たちはそれぞれの力を尽くし、目の前の強敵に立ち向かっていた。しかし、スルトはまるで揺るがない。彼の纏う炎がすべてを拒むかのように立ちはだかる。そのたびに、私たちの攻撃は押し返されてしまった。
 汗が背を伝う。焦りが胸を締めつける。このままでは――そう思った矢先、不意にスルトが呟いた。

「――燃えろ!」

 その一言が、さらなる災厄の始まりだった。
 彼の言葉を皮切りに地面がぐらぐらと煮えるように揺らめいて、灼熱の炎が辺りを包み込んだ。ごおと燃える炎の中、燃える熱気に思わず顔をしかめる。スルトの炎が空気を焼くような音を立て、息を吸い込むだけで肺が焼けそうなほどだった。辺りを見回し、前線の皆の無事を確認していると――。

「!」

 視界の端でマルスが炎の海に囲まれて身動きが取れなくなっているのが見えた。体の丈を越えるほどの火の柱に囲まれ、なんとか薙ぎ払おうと剣を振るが追いついていない。スルトの炎はじわじわと彼の周囲を包み込み、今にも焼き尽くそうとしていた。
 早く火を消さなくちゃ――でもどうやって? 私は辺りを見回す。岩を落として火を潰す? いや、マルスだけ潰さないようになんてことはできない。

 ……そうだ。魔道、氷か風の魔道があれば。そう思って魔道を使える英雄に指示を出そうと思ったが、見ると彼はマルスから遠く離れた位置にいた。だめだ、スルトの攻撃や燃え盛る地面をかわしながらじゃ間に合わない。どうしよう――

「マルス!」

 私の声で、炎の中の彼が振り返る。戦闘に参加せず後方から指示を出すことに専念していたせいで、私とマルスの間には距離があった。でも、ただどうすることもできずに彼を見守るのは嫌だった。あの時のマルスが私を助けてくれたように、私も彼を助けたい。私にも力が欲しい――何かを掴もうとするかのように、私はその腕を伸ばす。
 その瞬間、私の手の中で何かが弾けた。ぱき、と何かが砕けるような音。

「!」

 腕から指先に冷気が集まり、まるで腕そのものが氷になったかのような感覚を覚える。右腕から溢れる光が小さく煌めく――これは、もしかして……!

「っ! ブリザー!」

 呪文を唱えると、冷気が爆ぜる音とともに右腕から氷の柱が放たれ、目の前の炎が一瞬で凍りついた。

 ――魔道だ! 私、魔道が使えるようになったんだ‼

 私のブリザーで地面の炎が収まり、マルスの足場が確保された。彼は一瞬驚いたような表情でこちらに視線を向けたが、すぐにスルトに意識を戻すと一気に地面を蹴り出し彼に切りかかった。

「はぁああああっ‼」
「ッ……! 小賢しい――!」

 マルスの一撃を受けたスルトが、今度こそ彼を仕留めようと自身の斧を振るう。マルスは上手く避けられているものの、既に長丁場になっている戦闘と神殿の暑さにやられているのか、いつもより動きが鈍く見える。このままではいつかスルトの攻撃を受けてしまうかもしれない――私は半ば祈るような気持ちで、もう一度右腕に力を込める。

「ブリザー!」

 もう一度、今度は大きな声で呪文を唱えると、再び指先に冷気が集まって、さっきよりも大きな氷の柱が現れた。そのまま腕を振るうと、スルトに向かって鋭い氷のつぶてが真っ直ぐ飛んでいった。

「っあ――‼」

 マルスに気を取られていたスルトは、自身の目元に氷の礫を受けた。両目を庇い膝を突くスルトに、マルスがもう一度切ってかかった。

「とどめだ!」
「ッ……! ぐはっ――」

 マルスの剣先がスルトの体を切り裂き、バランスを失った彼はそのまま前に倒れ込んだ。マルスの一撃が致命傷となったのか、スルトは起き上がる体力が残っていないようだ。地に伏せながら、彼は呻いた。

「ば、馬鹿な……あ、ありえぬ……こんな……ことは……」

 呻き声をあげるスルトに、〝氷の国〟ニフルの王女フィヨルム――彼女はスルトに家族と国を奪われた――が歩み寄る。自身の槍の切先を突き立て、彼に鋭く言い放った。

「お前は私たちの大切なものを幾つも幾つも奪いました……だから今、お前は奪われるのです――すべてを」
「があぁぁぁぁぁっ――!」

 彼女の氷の槍がスルトを穿つ。スルトの最後の叫びが、炎の消える音とともに闇に吸い込まれていった。フィヨルムが槍を引き抜くと、沈黙が訪れる。
 彼女の震える肩を見て、私もまたこの戦いがどれほどのものだったのかを実感した。彼女は赤黒い海に跪き、静かに両手を組む。

「――母様、姉様……やっと、やっと終わりました……」

 祈りにも似た彼女の声が、炎の儀の神殿に静かに響く。
 長かったスルトとの戦いもこれで終わりだ。これでアスクとニフルに安寧が訪れる――天の母と姉に祈るフィヨルムの後姿。それを見つめるマルスの姿を、私はじっと見ていた。
◆ ◆ ◆

「マルス、痛くない?」

 彼の頬に冷たい布を押し当てながら尋ねる。スルトとの戦いで火傷を負った部分を冷やしているのだ。激しい戦闘の最中に陽はすっかり沈み、高く澄んだ夜空には静かに月が輝いていた。
 アスクへ帰る道すがら、私は仲間たちの怪我を確認して回っていた。その中でマルスの顔に火傷の痕ができていることに気付き、思わず足を止めたところだった。赤く腫れた肌――その痛々しさに、胸の奥がひどくざわめく。火傷を負ったマルスの頬はじんじんと熱く、彼の痛みが指先から伝わってくるようだった。

「ううん、大丈夫」

 私の問いに、マルスは相変わらず柔らかく微笑んで答えた。その顔を見て、私は息を呑む。

 ――やっぱり、きれいな笑顔だな。この笑顔に、どれだけの人が救われたのだろう。私もまた、彼の笑顔に何度も勇気をもらってきた。
 だけど、今日の戦いで彼が傷つくのを見たとき、胸が締めつけられるほど苦しかった。皆を指揮しなきゃいけない立場なのに、マルスのことばかり目で追っていた。どうして彼のことばかり気になるのだろう――

「そうだ。きみ、魔道が使えるようになったんだね。さっきは驚いたよ」
「あっ――、そうそう! 私もびっくりした、まさか急に使えるようになるって思ってなくて」

 突然の話題に少し慌てて話を合わせるように笑い、軽く握った自分の右手に目を落とす。
 戦いの途中、指先から飛び出した氷の礫……戦いの途中に宿ったあの感覚――アスクに戻ってからも、また思い出せるだろうか。あの時の光景を思い返していると、マルスが隣で口を開いた。

「ありがとう。今日はきみのおかげで助かったよ」

 後ろで月が光って彼の頬が白く輝く。凪いだ海みたいに穏やかなその瞳と、目が合った。まるで時が止まったように、鼓動の音だけが耳に響く。闇夜の中、今だって暗いはずなのに、神殿の中では見えなかった彼の痛々しい火傷の痕がなぜかよく見えた。

「きみが助けてくれなかったら、きっとぼくはスルトの炎に焼かれていただろう。……きみの力は、ぼくにとって大切なものだよ」

 マルスが優しく微笑む。その言葉を聞いた瞬間、何かが胸の奥で弾けた。

 ――私にとっても、マルスは……。心臓が強く波打つ。喉の奥が詰まり、息が苦しくなるほどに。目の前の彼に手を伸ばしたくなるような衝動。この笑顔を、ずっと見ていたいという想い。

「……うん。私にとっても、マルスのことは大切だよ」

 そう返すのが精いっぱいだった。それ以上何も言えなかった。言葉にすれば、きっと隠しきれなくなる。言えない想いを巡らせながら、私は静かに彼の隣で歩き続けた。

 アスクに戻ってからも、彼のことを考えてしまうのは止まらなかった。寝る支度を終えて私室のベッドに腰掛けると、ぎいと小さく木の軋む音がした。
 彼の声、仕草、表情――思い出すと胸が苦しくなる。布団にくるまりながら、ごろりと寝返りを打つ。そして、そっと自分の胸に手を当てた。
 ……私、マルスのことが好きなんだ。自分の胸をぎゅっと抑え込んだ右手は、とても熱かった。