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初桜
 人は、たった一瞬の出来事を永遠にすることができる。

 その日作戦を完遂し戦いに勝利した私達は、天馬による残兵の有無の見回りの後ようやく拠点へと帰還した。やがて夜を迎えた私達アスク軍は、その日勝利を祝する小さな宴を開いた。束の間の平穏の中で、皆各々勝利の喜びを分かち合っていた。

 料理もいくらか食べ尽くし兵士達の歓談が盛り上がってきた頃、輪になって話している皆を見ながら一人でぼんやりと飲み物を飲んでいた私の元に、マルス王子――私が召喚した英雄の一人である――がやって来た。夜風に彼の服の裾がひらりと靡く。

「やあ、スミレ」
「マルス王子」

 彼は、数多ある異界のうちの一つに存在する〝アリティア王国〟という国の王子であるらしい。特務機関に属するアルフォンス王子のそれとはまた違った、透き通るような明るい青色の髪に青い装束。そんなまるで青空のような彼は『王子』という言葉のイメージから容易く想像できるような、優しくて誠実――そして責任感の強い男性だった。彼を慕う仲間は数多く、そして私も彼を頼る機会の多い人間の一人である。

 多くの兵士達は酒を飲み大半が機嫌良く笑っていたのだが、見たところ彼は酒を口にしていないようだった。彼の手元に握られているのが水の入った器だったし、顔も全く火照っている様子がなかったからだ。恐らく『まだ警戒を解くべき時ではない』という彼自身の判断でそうしているのであろう。

 王子は私の顔を見て軽く微笑むと、言葉を続けた。
「スミレも今日一日お疲れ様。今回の作戦は少し難しかったんじゃないかな」
「いいえ、王子や皆さんの戦の腕前が素晴らしいからに他なりません。私の指揮は、拙いものです」

 私が王子に申したのは、全て心から思っていることだった。
 私は、アンナ隊長によってアスク王国に召喚されたあの日までは、どこにでもいる一般的な成人女性に過ぎなかった。元来剣とも魔法とも縁の無い、そして何の才能もないただの人間だ。今、こうして『アスク王国の召喚師』そして『アスク軍の軍師』として皆の元で戦えているのは、特務機関の皆とマルス王子含む英雄達がいてくれるからに他ならなかった。

 私がマルス王子に感謝の意を述べつつ頭を下げると、突如髪の上に柔らかい感触が走った。私が驚いて――しかし平然を装いつつ――頭を下げたまま前を見遣ると、なんと王子が私の頭に手を伸ばしているではないか。

 私の頭の上を流れた、細く――しかしながら私達を護らんとする、そんな意志が感じられる重みのある感触。マルス王子の指は、私が初めての感触に戸惑っている間に離れていった。王子が私の頭を撫でてくださるなんて夢にも思っていなかったのだ。私は一瞬彼に何をされたのか理解ができず、言葉を失った。その隙間を埋めるように、王子が言葉を続けた。

「スミレ、そんなことを言わないで。ぼく達はいつも君がいてこそ戦えるんだよ。いつもありがとう、今日もぼく達が勝利できたのは君のお陰だ」

 王子は私の頭から手を離した後そう言った。王子の顔を見上げると、彼はいつもの柔らかい笑顔を浮かべていた。『王子様』と聞いて皆が想像する、はにかむような柔らかい笑顔。

「…………」
「――スミレ? どこか痛いのかい?」
「……あっ、ごめんなさい。私は大丈夫です」
「そうかい? 疲れているかもしれないから、今夜はよく休むようにね」
「はい……」

 ――王子の指が、私の頭から離れなかった。

 こんなにも私が固まってしまったのは、恥ずかしながら元の世界でもこんな風に男性に頭を撫でられることが少なかったのも理由としてあると思う。だけど、他でもないマルス王子に頭を撫でてもらえたのは、私の中でとても特別なことに思えた。でもその時の私は自分の中で抱いたこの感情を上手く処理することができず、ただただぼんやりと彼の背中を見送ることしかできなかった。

 もっと私の頭を撫でて欲しい――その気持ちを言葉にして伝えられたらいいのに……。そんな風に言葉に落とし込むことができるようになったのは、ここ数日のことだった。






「はっ」
 いけない、また耽ってしまっていた。

 気が付くと、手元にはインク染みのできた地図と、右手から離れてしまった羽ペンが転がっている。この地図はもう使い物にならないだろう。私は大きく溜め息を吐いて、自らの粗相を片付け始めた。

 マルス王子に頭を撫でてもらってから、私の頭の中は少しずつマルス王子のことでいっぱいになっていっていた。部屋で一人の時に考えてしまうのならまだ良いのだが、会議中に王子と目が合ったり(その日から机の向かいの席に座るのは控えている)、作戦中にも彼の後ろ姿を見たり、とにかく彼の姿が目に入るだけであの日のことを思い出すようになっていたのだ。

 なんとか気を逸らすべく、今日は私室ではなく敢えて誰でも入れる図書館で次の作戦の資料に目を通していたのだが――そうして気を紛らそうと必死になっているうちに、いつの間にかまた物思いに耽っていたようだ。一人の兵士に特別な感情を抱くなんて、これでは軍師失格だ。邪な思いを振り払うように、首をぶんぶんと横に振る。

(もう――)

 ふと顔を上げると、先ほどまで夕陽が差していたはずの窓には星空が浮かんでいた。
 私が図書室に入った頃はまだ昼間で、本を読む人も他に何人かいたはずなの、にいつの間にかすっかり誰もいなくなってしまっていた。もうこんなに時間が経っていたの? 陽も沈み切っているし、もうそろそろ夕食の時間を知らせる鐘が鳴る頃だろう。私がすっかりだめになってしまった地図をくずかごに放り、無事だった資料と筆記具をまとめて図書館を後にしようとした――その時だった。背後から、誰かの足音が聞こえてきた。

「スミレ」

 次に私を呼んだその声は、よく知った声だった。まさか王子に会えるとは思っていなかった私は、肩を大きく跳ねさせてしまった。

「お……王子!」
 驚きを隠せない私をよそに、彼は私にゆっくりと近寄ってくる。そうして私の手元にある資料を見ると、少し眉根を顰めた。

「次の作戦、やっぱり難しいかい」
「え……あ――」

 まずい。きっと王子は私が作戦を練るのに難儀していると勘違いされている。まさか、貴方のお手の温もりを思い出していたのです――なんて、口が裂けても言えなかった。『ええ少しだけ、でも大丈夫です』――なんて答えてこの場を切り抜けるのは簡単だと思うけれど、こんな私にも平等に接してくださるお方なのだから、きっとお気に留めてしまわれるだろう。結局どう答えるのかが正解か分からず、私は言葉を詰まらせてしまった。

「…………スミレ」
「は、はい」

 王子の険しい表情が一層深くなる。しまった、やはり何か言ってしまった方が良かったかもしれない。そんな風に私が後悔を始めた頃――あの日の感触が私の頭の上を流れた。

「あまり無理をしないでくれ。たまには、ぼく・・や――相談しづらいなら、特務機関の誰か――とにかく、君が信頼できる誰かに相談してほしい。君はすぐに無理をしてしまうから、心配だ」

 そう言って王子は私の顔にご自身のお顔を近付けた。

 王子の美しいお顔が、これまでに無いくらい、私の目の前に迫っている。――王子に頭に撫でられた上に、彼の顔が近い……!! 王子のお顔は曇っているというのに、私ときたらなんだか心臓が爆発しそうな思いで、彼の言葉にたどたどしく相槌を打つのが精一杯だった。

「は、はひ」
 わっ、動揺して噛んでしまった。私は慌ててそれを誤魔化すように、後の言葉を続ける。
「ご心配をお掛けして、申し訳ありません」

 私が謝罪の言葉を言い終わる頃には、王子との距離はいつも通りのものに戻っていた。それでも、今はお話できるだけでドキドキしてしまうけれど。

「ううん。今日は夕食を食べたら早めに休むといいよ」
「はい……」
「…………大丈夫かい? 食堂まで送ろうか?」
 今度は彼の心配そうな顔が覗き込んできて、またも私と王子の距離が縮まる。

「――えっ!?」
 だ、だめ……!! これ以上接近されると私の心臓が持たない――!! 自分の身を守るため、心が痛いけれど私は今度こそ嘘を吐くことにした。

「だ、大丈夫です、それに戻さないといけない本もまだありますのでっ」
 私がそう言い切ると、王子も納得されたのか私から距離を離された。

「分かった。じゃあ、後で夕食の時に会おうか」
「は……はひ……」

 マルス王子は相変わらずの優しい笑顔を浮かべて、図書館を後にされた。

 私といえば、彼の背中が見えなくなるまでその場で立ち尽くしていた。その青い髪と青い服が図書館を出たのを確認すると、私は張り詰めていた息を一気に吐き出してしゃがみ込んでしまった。

「……ふわぁっ……」

 頭に手を遣ると、まだ王子の感触がそこにある。ああ、私はなんて幸せ者なのだろう! ずっとこんな風に王子に触れられたのなら――そんな風に考えてから、すぐに首を振った。

(なんてはしたない……!)

 違う、マルス王子は一国の王子であり、一人の兵士……、そして私は軍師――しかも、元々は何の才能も持たなかった凡人なのだ、特別な感情を抱くなんてあってはならない。

 私はそんなことを考えながらも、彼に触れられた髪を自らの手でそっと撫でた。以前にこうやって撫でてもらった瞬間、そして、ついさっき撫でてもらった瞬間。

(どちらも、忘れられなさそう)

 二つの思い出を繰り返しながら大事に反芻していたが、傍から見れば自分で自分の頭を撫でている女になっていると気付いた私は足早に図書館を立ち去った。頬にいつまでも体温が募り、夕食時も顔が赤くなってはいないかと気が気ではなかった。

 また、あんな風に王子に触ってもらえれば――。その日私は夜眠りに就くまで、そのことばかりを考えてしまっていた。次はいつ彼と会えるだろう。

2023/10/15