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透明なあさ
 暗い空に雨がざあと降っている。普段なら何とも思わないような、特に大雨というわけでもない普通の雨だ。しかし、ぼたぼたと電車に打ち付けるその雨音がその日は一段と重苦しく、私の気持ちをせせら笑っているような気すらした。

 今日私は、会社で信じられないようなミスをしてしまった。
 何度も確認したつもりだったのに、全く思いも寄らないところで失敗をしてしまった。上司にはこっぴどく怒られたし、同僚の仕事を余計に増やしてしまったし、納期にも遅れて取引先にも迷惑を掛けてしまった。いくら毎日能天気な私でも、今日の出来事はさすがに堪えた。今の私の気分はまさにどん底という言葉がぴったりだ。

 駅を出て真っ暗な水溜まりに足を踏み入れると、爪先に冷たい水が染みる。そのまま歩を進めると、まるで冬の日の薄氷を割っていくみたいにぴしぴしとヒビが入るような気がする。パンプスとストッキングでしか守られていない私の足先はあっという間にずぶ濡れになった。

 どれだけ振り払おうとしても、昼間の嫌なことがぐるぐると頭の中でこだまする。もう暗いし、こんなに降ってるんだから少しくらい泣いたってバレないよね。そう思った私が水溜まりを踏みしめてコンビニの角を曲がろうとした、その時だった。

「珪ちゃん!」
「……スミレ」

 ぴかぴかと明るいコンビニの屋根の下に、すらりとした男性の影が一人。雨宿りで並ぶ他の影よりひと際背の高い彼は、間違いなく私の恋人の珪ちゃんだった。
 零しかけた涙を拭って私が彼のところまで向かうと、珪ちゃんは「ほら」と私の長傘を差し出した。家に置いてある、お気に入りのピンクの傘。……でも――

「……私、傘持ってるよ?」
「おまえの傘、折り畳みだろ。……濡れるから、使え」

 珪ちゃんはそう言って、未だ折りたたみ傘を差している私の手に長傘を握らせた。その不器用な優しさに、じわりと涙が滲む。

「……ありがと」

 震えそうな声を足元の水溜まりでかき消す。私が彼から受け取った傘を開くと、雨の音は少し遠くなった。

「じゃあ、帰るか」

 そう言って私の前を歩く彼の大きな背中がどうしても愛おしくて、私はもらった傘の柄をぎゅっと握り締めながら帰路に就いた。
 私と、私の恋人の珪ちゃんは、同じ家で生活している。去年の春から、私達の帰り道は一緒になった。




 さあーという穏やかなシャワーの音は、仕事でささくれてしまった私の心を癒やしてくれた。慣れた家の温かいお湯が私を元通りの体に戻していってくれているみたい。

『飯にするか、風呂にするか、……それとも寝るか』
『えっ!?』

 家に着いた私がタオルで濡れた身体を拭いていると、隣で同じく髪を乾かしていた珪ちゃんが衝撃的なセリフを口にした。
 まさか珪ちゃんがこのセリフを口にする日が来るなんて――彼がこんなにストレートに誘ってくるとは思わなかった。いつもはこうやって言葉を交わしたりはしないから……。驚いた私が思わず聞き返すと、珪ちゃんは寂しそうに眉根を下げた。

「おまえ、いつもより疲れてるだろ。明日は休みだし、先に寝てもいい」
「……あ、寝るってそういう――」
「ん?」

 ち、違った。珪ちゃんは純粋に私を気遣ってくれてたみたい。なんだか気恥ずかしくなって私が顔を伏せると、珪ちゃんは「どうした?」と私の顔を覗き込んだ。

「あ、いや、えっと。じゃあ、濡れちゃったからお風呂がいいな」
「……ああ。沸いたら一緒に入るか、風呂」
「えっ、一緒に?」
「ああ」

 困惑する私をよそに、珪ちゃんはいつもの調子で答えた。
 ……珪ちゃんとお風呂に入るのは、べつに初めてではない。この生活を始めたばかりの頃は一緒に入ることもあったけど、帰る時間にズレができるようになってからは自然とそういう機会もほとんどなくなっていた。彼から改めて『一緒に入るか』なんて言われると思わなくて、つい驚いてしまった。
 やっぱり今日は何かあるのかな。体を拭いたタオルを洗濯機に放り込んで、どぼどぼという音を背中で聞きながらお風呂が沸くのを待った。



 『俺はあとから入るから、おまえは体を洗って待ってろ』という珪ちゃんの言葉通り一人で体を洗っていると、後ろからドアの音がした。

「スミレ。体洗い終わったか?」
「うん」
「じゃあ、髪、洗ってやるから」
「へっ……あ、ありがとう」

 そう言うと彼は私の後ろにしゃがみ込み、私の髪を洗い始めた。珪ちゃんが私の髪を洗ってくれるなんて、初めてだ。一緒にお風呂に入るのと言い、特に何でもないことのはずなのになんだかドキドキしてしまう。
 彼のごつごつした指が、私の髪の中を何度も滑っていく。彼の指で髪が梳かされていくたび、頭の中のモヤモヤが少しずつ解されていくみたいで気持ち良かった。

「かゆいところはございませんか」
「ふふ。いいえ、大丈夫です」
「わかった」

 私の頭を洗い終えた珪ちゃんは私を先に湯船に入れると、今度は自分の髪を洗い始めた。私は彼の背中をぼんやりと眺めながら考える。
 ――珪ちゃんは、どうして今日私がこんなに疲れているのを見抜いていたんだろう。これでも一応明るく振る舞っていたつもりなんだけど……私ってそんなに分かりやすいかな――それとも、珪ちゃんが私のことをよく見てくれているから? もしかしたら、どっちもかもしれないな。
 心配させちゃだめだ。もっとしっかりしなきゃ。そう自分に言い聞かせていると、珪ちゃんが自分の髪を泡立てながら言った。

「スミレ」
「うん?」
「飯食ったら、一緒に寝よう」

 彼は私と目を合わせなかったけど、それでも私にはなんだか彼の表情が分かる気がした。

「うん」

 相槌を打つと鼻がじんと詰まりそうになって、こっそり鼻を啜った。私の鼻の音は、珪ちゃんが流すシャワーの水音に吸い込まれていった。

 珪ちゃんと一緒に浸かるお風呂は、一人で入るより温かい。冷たい雨に打たれてぎゅっと凍ってしまいそうだった私の心は、二人で浴びる白い湯気がゆっくりとほどいてくれた。




「ん〜、珪ちゃんあたたかい」
「熱いな、おまえ……」

 すっかり寝る支度も終え、布団に入った私は珪ちゃんの胸元に抱き着いた。珪ちゃんの胸は私と違って硬くて広いから、抱き締めるたび不思議な気持ちになる。そのまま顔を埋めると、石けんのいい匂いがした。

「珪ちゃん、好き……」
「俺も」

 彼はそう言って私を抱き締め返してきた。ぎゅうっと密着すると珪ちゃんをいっぱい感じられて好きだけど、胸がきゅーってなって、切なくなる気もする。その小さな寂しさを埋めるためにもっと抱き締めると、彼も負けじと抱き締めてきた。

「うぅ〜、好きだよぉ」

 溢れ出そうな想いを声にして、彼にひしと抱き着く。切なさを埋めるために縋っているはずなのに、頭の片隅につらい記憶が募っていく。私を叱った上司の顔や、電話口で困った様子の取引先の人の声色が脳裏に過る。珪ちゃんと一緒にいるときは、もう仕事のことは忘れようと思っていたのに……。

「…………やっぱりおまえ、今日ヘンだ」

 珪ちゃんは私に回した手で、私の背中をとんとんと優しく叩き始めた。いやだ、珪ちゃんの前で泣きたくない――珪ちゃんとの穏やかな時間を少しでも守りたかった私は、彼の温かい腕の中でぐっと涙を堪えた。

「そんなことない」
「……あるだろ」
「ない……」

 私が否定すると、彼は私を抱き締める力を強くした。彼の体温がもっと近くなる。……でも今はその温かさに胸が締め付けられるようだ。喉の奥がぎゅっと詰まって息が上手くできない。

「スミレ。……何かあったのか、今日」

 彼の言葉に顔を上げると、彼の翡翠色の瞳とぶつかった。彼の寂しそうな顔が、まるで私の心の中を映してるみたいで――真っ直ぐ見る勇気のなかった私は、また顔を背けてしまった。

「お……教えない」
「どうして」
「……やだ」

 言いたくなかったから、小さく呟いた。でも、呟くだけじゃ足りなくて――もう一回やだ、と口を大きく開けて声に出すと、そのままボロボロと涙が溢れ始めた。息がうまく吸えなくなって、わあと洩れた声がざらつく。一度涙が零れると堰を切ったように止まらなくなり、気が付くと私は子供みたいに声を上げて泣いていた。

「あ……わ、わたしっ……わあぁあんっ」

 私がわんわん泣き出すと、珪ちゃんは私を宥めるようにぎゅっと抱き締め直してくれた。泣きたくなかったのに、泣いちゃった。みっともない顔を見られるのがイヤで、私は顔を上げず彼の胸の中で泣き続けた。

「……ほら。やっぱりヘンだ、おまえ」
「うぅ〜……」

 彼は私の背中をずっと撫で続けてくれたけど、その手つきはどこかぎこちない気がした。そのぎこちなさにまた胸が切なくなる。

「今日……何かヤなことでもあったのか」
「んっ、んうう」

 喉の奥が詰まってうまく声が出せなかった私は、彼の言葉にこくこくと頷いた。珪ちゃんは自分の胸の中で涙を流されているにも関わらず、黙って私の背中をさすってくれていた。

 しばらくしてようやく落ち着いた私は、今日あった出来事を少しずつ彼に話し始めた。
 今日大きなミスをしてしまったこと。上司達の間で話が食い違っていたこと。前々から貰っていた書類に不備があったこと。確かに確認を怠った自分が悪いけれど、そんなに怒らなくていいんじゃないかと不満を抱いたこと。口に出してみると、自分が悪いところも、他人が悪いところも、両方あることに気が付いた。
 珪ちゃんは、私が漏らした言葉の一つ一つに「うん」「うん」と静かに相槌を打った。彼の温かい手のひらが、愚痴をこぼす私の頭を優しく包み込んでくれていた。

「珪ちゃんごめんね、こんなこと聞かせちゃって」
「……べつに。おまえの話聞くのは、嫌いじゃない」
「ふふ。ありがとう」

 珪ちゃんの胸に顔を埋めて小さく笑うと、彼もまた私の頭に顎を乗せてきた。彼の顎が当たって少し痛いけど、今はその痛みすら心地良い。

「スミレ。……おまえは大丈夫だ」
「……そうかな」
「ああ」

 彼はそう言って私の頭をぽんぽんと叩いたあと、私の身体をぎゅっと抱き締めた――その手つきがあまりにも穏やかで、まるで自分が子供になったみたいだった(珪ちゃんにとっては、猫を可愛がってるつもりかもしれないけど)。少し恥ずかしいけれど、今はその温かさがとても心地良い。

「今日は、もう寝よう。……スミレ」
「……うん、おやすみ。珪ちゃん」

 私は彼に抱き締められて温まった身体で瞳を閉じた。珪ちゃんの温かさと柔らかい布団が、ゆっくりと体に馴染んで意識が融けていく。そのまま二人で眠りに就くと、心の中の澱はいつの間にか消えてなくなっていた。



 気が付くと、私達のベッドに白い光が射し込んでいた。遠くからチュンチュンと鳥たちのさえずりが聞こえる、穏やかな休日の朝。まるで昨日の冷たい雨は夢だったかのようだ。

「んん……」

 私が窓の外に気を取られていると、隣から小さな呻き声が聞こえてきた。もぞもぞと彼の頭が動く。

「珪ちゃん」

 私が声を掛けても、彼は目を覚まさない。べつに今日に限った話じゃない。珪ちゃんはいつも、私がどれだけ声を掛けても起きないのだ。朝もそうだし、昼寝の時も夕寝の時もそう。彼は学生のときからずっとそうで――そんな彼の寝顔を見るのが、密かな私の楽しみだった。

「好きだよ」

 小さく呟いて、彼の頬にそっとキスをした。お寝坊な彼の前では私の言葉もキスもきっと内緒にできるから――と思っていたのに。私がキスをすると、彼の若葉色のまつ毛がふるりと動いてしまった。

「ん……スミレ……」
「あ、珪ちゃん、起きたの?」

 私の質問に「ああ」と答える珪ちゃんだが、その瞼はまだ重そう。ゆらゆらと体が揺れたかと思うと、隣で寝転んでいた私をぎゅっと抱き締めて布団の中に潜り込んでしまった。

「ふふ……珪ちゃん、起きれないよぉ」
「ああ……俺、もう一回おまえを寝かせないといけなくなった……」
「? どうして?」

 言葉の意味を聞き返すと、彼は小さく身じろぎした。もぞもぞと頭が揺れて、彼の柔らかい髪が私の首元をくすぐる。珪ちゃんはまだ眠気の残る声で言った。

「俺……昨日寝る前、次の日の朝ごはんを作ってやろうと思ってたんだ。おまえが起きる前に」

 ――そうだったんだ……。私が昨日あんなに泣いたから、気を遣わせちゃったかな…… 私が何も返せずにいると、彼は言葉を続けた。

「でも……失敗した。だからもう一回寝て、次は俺の方が先に起きる」
「……ふふっ」

 私を元気付けるためとは言え、変なところで意地を張る彼が可愛くて思わず笑みがこぼれる。「じゃあ、次は一緒に作ろうよ」と彼の髪を撫でると、彼は「ん……」と短く返事をして私を抱いたまま猫みたいに丸まってしまった。

「スミレ……」
「うん?」
「俺も、好きだ」

 そう言うと、珪ちゃんはそっと私に口付けをした。穏やかで、やわらかい。彼の愛おしむ、春の日だまりみたいなキスだった。

「ふふ。私も珪ちゃんが好き」
「ああ……」

 私が微笑むと、珪ちゃんは安心したようにまた目を閉じた。私はそんな彼の寝顔をしばらく眺めていたけど、いつの間にかうとうとし始めていた。彼の温かい体温が私を夢の中に誘っていく。
 その心地良さに身を委ねて、私達は朝日の中再び眠りに落ちた。

2024/07/06