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キスは星の裏側
 ――ああ、拙者は世界一の幸せ者でござるっ!
 夢ノ咲学院からの帰り道。拙者は普段こそ星奏館で生活しているけれど、月に何度か家に帰って家族と過ごす日を作っている。
 星奏館で皆と過ごすのは楽しいけど、家族三人で食卓を囲む夜も暖かくて好きだ。母上も父上も拙者が帰ってくるといつも笑顔で迎えてくれる。
 でも最近はそれだけじゃない。――実は、最近家に帰るときは、学院から彼女と一緒に帰っている。そう、拙者には、最近素敵な彼女ができたのでござる!!
 彼女であるスミレ殿との出会いは数ヶ月前、拙者が迂闊にも落としてしまった大事な持ち物を拾ってくれたことがきっかけだった。拙者はアイドル科で彼女は声楽科……学科は違ったけど、一緒にお昼ご飯を食べたりテスト勉強したりして少しずつ仲良くなっていった。
 彼女は優しくて、純粋で、素直な御仁だ。拙者はそんなスミレ殿のことが好きだ。
 彼女は普通の女子高生だけど、拙者は既にアイドルとしてデビューし、テレビ出演や雑誌のインタビューなんかの仕事もこなすようになっているので、拙者達の関係はあまり大っぴらにすることができない。だから一緒に手を繋いで歩いたりなんかはできないけれど、本当はもっと彼女と色んなところに行ってみたいし、手も繋いでみたいな――なんて、未熟者の拙者にはまだ早いでござろうか……。

「仙石君、どうしたの? ぼーっとして」
「へ!?」

 ふと気が付くと、隣を歩いていた彼女の瞳が拙者の顔を覗き込んでいた。しまった、せっかく一緒にいると言うのにぼんやりしちゃってたでござる!

「いやっ、何でもないでござる!」
「本当? 疲れてたりしない?」
「いや、その、えっと……本当に何でもないんでござるッ!」

 ぶんぶんと手と首を振りながら口にしたからか、語尾が裏返った。心配する彼女を安心させようとしていたのに、これでは逆効果だ。そしてやはり、そんな拙者の様子を見て彼女の眉がハの字に垂れ下がってしまった。

「……えっと。本当は、スミレ殿のことを考えていたんでござる」
「私のことを?」
「そうでござる。その……拙者、スミレ殿と一緒に過ごせるのが嬉しくって……」

 ……彼女に素直な気持ちを伝えるのは、まだやっぱり少し恥ずかしい。自分で口に出しておいて居た堪れなくなってしまった。ちらりとスミレ殿の表情を窺うと、彼女も恥ずかしそうな様子で口元に手を遣っていた。彼女の頬はほんのり赤く染まっている。そんな彼女の様子が可愛らしくて、ぼーっと見惚れているとそっぽを向かれてしまった。

「もう。……仙石君のそういうところ、ずるいよ」
「ええっ!? よ、よく分からないけどすんません……!?」

 頬を膨らませ、むくれてしまった彼女。何故彼女に怒られてしまったのかが分からず拙者が一人慌てふためいていると、ぽつりと肩に雫が当たる感覚を覚えた。

「雨?」

 顔を上げると確かに空は黒々と濁っていて、確かに今にも雨が降りそうな天気だ。……などと考えているうちにもポタポタと雨粒が落ちてきて、足元のアスファルトにも点々と雨の跡が染みていた。

「うわっ、降ってきた」
「急でござるな……!?」

 突然降り出した雨はみるみるうちに激しくなっていき、拙者達の身体を濡らしていった。最初は急いで帰ってやり過ごそうとしていた拙者達だったが、やがて土砂降りとなった雨を前に二人で雨宿りをする羽目になってしまった。ちょうどシャッターの閉じているお店の軒先を見つけたので、小さなビニール屋根の下で雨が弱まることを待つことにしたのだ。

「うう、困ったでござる……」
「ねえ、この辺りだけ雨雲がかかってるみたいだよ」

 と、手元の携帯を見せてくれた彼女の姿を見てどきっとした。雨で彼女の白いシャツが濡れ、彼女の素肌が透けているのだ。拙者がいくら修行を積んだ忍者であると言えど、思春期の男子である拙者にとって、これは、その、すごく目のやり場に困る。
 しかし拙者は今羽織れるものを持っていないので、指摘したところで彼女を居た堪れない思いにさせるだけだろう。だからと言ってそのまま見なかった振りをすることもできない。
 彼女のお天気アプリによると、あと一時間は降り続けるらしい。しかしよく考えれば、拙者の家はすぐ近くなのだ。拙者がタオルと傘を持って来られれば体を拭いてもらえるし、そのまま帰ってもらうこともできる。うむ、妙案! そうと決まれば、と隣で所在無さげに外の様子を見つめる彼女に声を掛けた。

「拙者の家、少し走れば着くでござるから。拙者がタオルと傘を持ってくるでござる。スミレ殿はそのまま傘を使って帰るでござるよ」
「えっ、仙石君が行くなら私も行くよ」
「いやっ、拙者はともかく、スミレ殿が濡れるのは良くないでござる。忍者ゆえ、シュタタタッと取ってくるでござるっ☆」
「いや、でも……」

 ぼたぼたぼた。頭上のビニール屋根に雨がぶつかる鈍い音が、拙者達の無言を埋める。いつの間にこんなに強くなっていたのか。
 うう、困った。せめて折り畳み傘でも持っていたら……。ここで雨が止むのを待つしかないでござろうか?
 否、本当はもう一つ頭の中に策があるにはある、のだが……。言って良いものかと拙者が頭を抱えていると、スミレ殿の心配そうな声が聞こえてきた。

「……仙石君、お家近いんだし、私は置いて帰っても大丈夫だよ?」
「なっ!? スミレ殿を置いて帰るなんて、そんなのできないでござるっ!」

 だめだ、もうこうなれば仕方がない! 意を決して拙者は最後の案を彼女に提案してみることにした。

「せ、拙者の家、その、実は今誰もいないんでござる。買い物に行ってるみたいで……。スミレ殿さえ良ければ雨宿りしに来てほしいのでござる」

 もちろん、言うまでもなく、下心は無い。そのことを伝えるためになるべく落ち着いて話したつもりだったけど、彼女の真っ赤な顔を見て、あ、拙者も今顔赤いのかも、と思うのであった。
◆ ◆ ◆

 外ではまだ雨が降っている。だけど、なんだかカチカチと時計の針の音が聞こえるような気すらする。

「…………」
「…………」

 拙者の家の、自分の部屋。小さなテーブルを挟んで、スミレ殿と向かい合ってお互い正座をしている。自分の部屋なんて世界で一番落ち着ける場所であるはずなのに、彼女が近くにいるというだけで心臓のドキドキが止まらない。

「雨、止まないね……」
「そうでござるな……」
「明日は晴れるみたいだよ」
「よ、良かったでござる……」
「…………」
「…………」

 ああっ、何か喋らなきゃとは思うのに、気の利いた言葉がなんにも思い付かないでござる……!! スミレ殿が一生懸命会話をしてくれようとしているのに、緊張しすぎて会話のキャッチボールができない。うう、拙者はなんて不甲斐ない忍者でござろうか……。
 沈黙の時間が過ぎていくにつれて、自分を嫌いになりそうな気持ちが募っていく。うまく人と関われなかったあの頃によく感じていた空気。なんだか昔のことを思い出してきて少し辛かった。――ううん、このままじゃだめだ。なんとかこの状況を変えないと。

「……えっと。いつもみたいに楽しく話せなくて申し訳ないでござる」
「えっ、ううん、大丈夫だよ」
「その、拙者、実はすごく緊張していて……。あはは、自分の部屋なのに全然リラックスできてないでござる」

 なんとか場を和ませたくて、頭を掻きながら笑ってみせる。すると彼女は少し驚いたような表情を見せたあと、すぐにいつもの穏やかな笑みを見せた。

「……ふふ。ねぇ仙石君、手、出してくれる?」
「えっ、て、手?」
「うん。こうやって」

 彼女の膝の上にあった手のひらがテーブルの上に置かれ、拙者の目の前に現れる。彼女の意図が分からなかったが、とりあえず言われるがままに拙者も両手をテーブルの上に置いてみた。

「!」

 拙者の手の上にそっと彼女の手が置かれ、そっと包み込まれる。彼女の指先から柔らかな体温が伝わってきて、女の子の指に初めて触れた拙者は、一層ドキドキが止まらなくなってしまった。

「えっとね、最初部屋に入れてもらったとき、私もすごく緊張してたよ。でも仙石君も緊張してるって聞いて、なんだか嬉しくなっちゃったんだ……あはは、ちょっとヘンだよね」

 そう言って困ったように眉根を下げて笑った彼女の顔は、なんだか今まで見た彼女の表情の中で一番愛しく感じられる気がした。

「それに私、仙石君と手を繋いでみたかったんだ」
「拙者と?」
「うん。仙石君はアイドルだから外で手を繋いじゃいけないのは分かっていたけど……でも、せっかく恋人になったんだもん。もっと近づきたいな、って思って」
「!」

 ――ああ、同じ気持ちだったんだ。自分と彼女の気持ちが重なっていることがわかって、拙者の胸は一層温かくなった。自分の好きな人が自分を好いてくれていて、しかも、抱いている気持ちも一緒だなんて。好きな人と付き合えるって、こんなにも嬉しいんだ。

「せ、拙者も、スミレ殿と手を繋いでみたかったでござる。拙者はアイドルとして仕事をしているからダメだって思い込んでたでござるけど……その、二人きりだったら、繋げるでござる」

 スミレ殿に包まれるだけだった手をほどいて、彼女の指と自分の指を絡める。それに気付いた彼女は、嬉しそうに顔を緩めてくれた。自分と彼女の体温が一つになって、彼女の気持ちが指から伝わってくるみたいだった。

「ねえ、仙石君……好きだよ」
「せ、拙者も、スミレ殿のこと……好きでござる」

 雨がしとしと音を立てながら降っている。彼女を好きなこの思いが、雨の音の中にこだまするような気持ちだ。この時間と温もりがずっと続けばいいのに。雨の中、ずっとこの温かい場所にいたい。





「仙石君、送ってくれてありがとう!」
「むふん♪ 護衛任務も拙者にお任せでござる……☆」

 家族が帰ってくる前に無事に雨も止み、スミレ殿を家から送り出すことができた。外に出る頃には雨の匂いだけが残っていて、空には星が瞬いていた。すっかり日も傾いてしまったので、拙者がスミレ殿を家まで送ることにしたのである。

「仙石君、今日は本当にありがとうね」
「ううん、こちらこそでござる。今日は、その、嬉しかったでござるよ」
「ふふ」

 拙者の顔を見てほほ笑む彼女。その端正な髪が夜風に揺れる。
 ああ、まだ離れたくないな。さみしい。でもこの寂しさも彼女と出会わなければ知らなかった感情なのだと思うと、そんな自分の気持ちさえ抱きしめたい気持ちになってしまう。

「……その、スミレ殿」
「? なに?」
「少しだけ、目をつむってほしいでござる」

 拙者の言葉を聞いて、素直に目を閉じるスミレ殿。でもその面持ちは少し硬い。
 拙者は改めて周りの様子を確認すると、そっと、彼女の唇に――、……。…………。

「……仙石君?」
「うひっ!? えええっと、そのっ」

 拙者の心を見透かすように彼女の目が開く。
 やっぱり拙者には早いだろうか、いやでも次いつ二人きりになれるか分からないんだし。彼女のことを大事に想うからこそ、何もせずに見送ってしまうのは惜しい。気持ちを伝えたいと思えば思うほど、どうしても、唇を重ねてみたい――そんな欲が心の奥で膨らんでしまう。

「えっと、やり直し! 仕切り直しさせてほしいでござるっ」
「?? やり直し?」
「もう一回目を閉じてほしいでござる!」

 もう一度周りを確認する。人もゼロ、自転車もゼロ。ついでに猫もゼロ。いざ、今度こそ行くでござる。仙石忍、男を見せるでござる――!
 ともすれば緊張で倒れてしまいそうになるのをぐっとこらえる。拙者は彼女の唇に近づくと、そっと自分の唇を重ねた。ふわり、と柔らかい感触が伝わって、初めての感覚になんだか心がこぼれそうだ。
 なるべくゆっくりと顔を離すと、驚いて目を見開くスミレ殿の顔があった。

「――せんごくくん、今……」
「…………」

 ヤバイ。マジ恥ずかしいでござる。
 自分からしておいてなんだけど、すごく恥ずかしいことをしてしまった気がする。というか、拙者だけ先走ったりしてはないだろうか? 拙者たち、今日でやっと手を繋げたくらいなのに、するとしても頬くらいがちょうどよかったのでは……。
 顔が熱くてたまらないし、汗がだらだら流れて止まらない。拙者きっと今ひどい顔をしているんだろうな……。完全にやっちゃったでござる――彼女の顔も驚いた表情で固まったままだし、ひょっとしたら嫌な思いにさせちゃったかも……。

「その、スミレ殿。申し訳ないでござる、拙者――」

 拙者が謝罪の言葉を述べようとすると、腕を広げたスミレ殿の姿が一瞬見えた。何事――と思った次の瞬間、彼女が拙者の体に抱き着いていたのである。

「わぷっ、スミレ殿!?」
「――あはは。仙石君、好きだよ!」

 彼女はそう言うと一層強く拙者を抱き締める。
 拙者に抱き着く前に一瞬見えた彼女は笑顔を浮かべていた。彼女が嫌がってないことが分かってよかった、一安心でござる……。安心した拙者が彼女をそっと抱き締め返すと、彼女の腕がまた強くなった。

「……今日、嬉しかったでござる。また二人で一緒に過ごしたいでござるな」
「……うん」

 彼女の腕がするりと離れ、潤んだ彼女の瞳と目が合う。次はきっと、ちゃんとできるはず。そう確信した拙者は、再び彼女に唇を重ねた。二度目のやわらかい感覚。今度はちゃんと彼女と心を重ね合う感覚があって、嬉しかった。
 抱き合う拙者たちを見守るのは、静かな星の瞬きだけだった。
◆ ◆ ◆

 後日。次にスミレ殿と会った昼休みはなんだか照れくさかったけど、二人の秘密が増えたみたいで、拙者は嬉しかった。

「ていうか仙石君、その、キス……しちゃったけど、誰かに見られてたら……!」
「むふん、拙者だって忍者の端くれ。事前の状況確認も抜かってないでござるよ……☆」

 拙者の言葉に顔を赤くしながらも笑ってくれる彼女。そんな彼女のことを、忍者として、そして一人の男として大事にしたい。もっと修行を積んで、もっと胸を張れる自分になろう。彼女の隣で、『ぼく』はそっと心の中誓った。

2025/08/31
Titled by icca